和歌山県立近代美術館

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トップページ > これまでの展覧会 > 2012年度の展覧会 > 生誕120年記念 川口軌外の歩み展

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生誕120年記念 川口軌外の歩み展

会期: 2012年11月10日(土)〜2013年1月14日(月・祝)

 生誕120年記念 川口軌外の歩み展 Kawaguchi Kigai: Celebrating His 120th Birthday


 

少女と貝殻 1934(昭和9) 油彩、キャンバス

現在の和歌山県有田川町に生まれた川口軌外(1892-1966)は、戦前から戦後にかけて新しい絵画の表現に挑み、生涯にわたって描き続けた画家でした。10代で画家を志して上京して以来、その歩みはヨーロッパの芸術について学んだ上で、独自の表現を生み出すことに捧げられ、日本の近代美術史上に大きな足跡を残しています。生誕120年に当たる今年、戦前から戦後にかけて洋画家として長く活躍を続けた川口の生涯の歩みを紹介します。

 

【会期中のイベント】

講演会「川口軌外の生涯と芸術」 酒井哲朗氏(前福島県立美術館館長)

11月10日(土)午後2時より

フロア・レクチャー(学芸員の展示解説)

11月17日(土)、11月23日(金・勤労感謝の日)、12月23日(日・天皇誕生日)、2013年1月13日(日)、1月14日(月・成人の日)

※いずれも午後2時より

 

【開館時間】9時30分~17時00分(入場は16時30分まで)

【休館日】月曜日(ただし12月24日は開館し、翌12月25日休館。1月14日は開館)、年末年始(12月29日−1月3日)

【観覧料】一般500(400)円、大学生300(250)円 ( )内は20名以上の団体料金

*高校生以下、65歳以上、障害者の方、県内に在学中の外国人留学生は無料

 

 

画家、川口軌外とは...

 

1.画家をめざして軌道の外へ

川口は本名を孫太郎という。父親が高齢になってからの子どもだったため、そのように名付けられたのだった。孫太郎が軌外になったのは、彼がまさに画家をめざしたゆえであった。孫太郎は、現在の和歌山大学教育学部の前身である和歌山県師範学校に進学したが、当時の師範学校は無償だったかわりに、卒業したら何年かは教師として勤めなければならなかった。成績ないしその後の勤務次第で、東京美術学校(現在の東京藝術大学)への進学を認められる可能性もあったのだが、画家への道を急いだ孫太郎は、学業半ばで上京してしまう。こうして彼は通常のコースをはずれて「軌外」、軌道の外へと歩みだすこととなったのだった。

上京した川口は、太平洋画会研究所や日本美術院洋画部で学び、同郷の芸術家の集まりであった南紀美術会にも加わるなど、徐々に作品の発表を行うようになる。ヨーロッパから帰国した安井曾太郎に個人的な指導を受け、勉強を続ける中で、フランスへ行きたいという希望を強くしていった。第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパ行きに強く反対していた母が亡くなったことで、軌外はフランスへと旅立つ。

パリに着いた軌外は、各地の美術館を訪れ、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝三、前田寛治らと交流を持ち、ブラマンク、ロート、レジェ、シャガールら同時代の画家から多くのものを吸収していくのである。

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 1 水差しのある静物 1925(大正14) 油彩、キャンバス 

 2 写像 1927(昭和2) 油彩、キャンバス

 3 キャフェにて 1927(昭和2) 油彩、キャンバス 個人蔵 

 4 車のある風景 1928(昭和3) 油彩、キャンバス

 

2.フォーブ、キューブ、シュール、日本の洋画

パリ郊外にアトリエを建て、フランスに永住することも考えていた軌外だが、1929(昭和4)年に帰国。早速ヨーロッパでの成果を二科展で問い、二科賞を受賞する。そして、里見勝三らが結成していた「1930年協会」に加わり、それが1930(昭和5)年の「独立美術協会」の結成につながることになる。

ブラマンクから強い影響を受けた里見が主張したのは、荒々しい筆致で対象を歪め、原色を多用するフォービスムの絵画だった。軌外もそのような表現を試みているが、それにとどまることなく、キュービスムやシュールレアリスムという20世紀前半のフランスで次々に起こった動向を反映した作品を発表していく。そこにはシャガールやルドンの影響を見ることもできるし、更に古いギリシア・ローマ時代の彫刻の形も利用されており、軌外がヨーロッパの芸術を幅広く学んだことをうかがわせる。

一方で牡丹、芍薬、鯉といった日本古来の絵画のモチーフや、瀞峡をはじめとする日本の風景にも取り組み、さらに中国絵画の造形も取り入れている。これは西洋に由来する油彩画の技術によって、日本の新たな絵画を生み出そうとする試みだった。

そのような姿勢は日本的傾向と評価され、軌外は画家として認められることとなっていった。

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5 花 1932(昭和7) 油彩、キャンバス

6 地維 1932(昭和7) 油彩、キャンバス

7 花と少女 1938(昭和13) 油彩、キャンバス

 

3.現代を歩む

日本で画家として認められ、活躍し始めた軌外だったが、第二次世界大戦が始まると自由な創作は難しくなり、さらに東京への空襲も激しさを増したことから、郷里である和歌山に疎開する。軌外が本格的な活動を再開できるのは、戦争が終わるのをまたなければならなかった。そして戦後になって軌外が取り組んだのは、新しい表現の世界だった。

浜辺でビーチバレーを楽しむ集団や仏像の衣紋、港の風景などに着想を得ながら、抽象的な造形へと歩みを進めたのである。

それは、戦後のヨーロッパから伝えられる新しい動向に反応したものでもあったが、軌外は戦前から抽象的な作品を試みており、彼自身の中に本来あった表現の一つの可能性を発展させたものだった。

特に人間の形を基本として抽象化した作品には、レジェから学んだ要素を独自に展開させたものと思われる。

さらに、絵具の物質性を強調したアンフォルメル的な作品も試みているが、これも戦前から描いている瀞峡の岩の表現などの中にあった要素を、最新の動向の中に認めて展開させたもので、ヨーロッパで学んだ素地があったからこそ、挑むことができた表現だったと言えるだろう。

滞欧期、戦前、戦後と、それぞれの時代で学びながら表現した軌外は、芸術家としての一つの道を歩み続けた画家であった。

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8 集団 1956(昭和31) 油彩、キャンバス

9 港 1957(昭和32) 油彩、キャンバス

10 森の中 1964(昭和39) 油彩、キャンバス 個人蔵 

 

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