和歌山県立近代美術館

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わが国の近代美術館事情2

(2)体験的「近代美術館」萌芽期の活動「事情」。

私が兵庫県立近代美術館に学芸員として着任した1980(昭和55)年、上司である学芸課長は、故増田洋氏であった。氏は芸艸堂から『学芸員のひとりごと 昨今美術館事情』を出版されているが(1993年)、当時の関西におけるまさに「美術館事情」通であり、私がある人に「兵庫に就職することになりました」と伝えると、「ああ、増田さんのとこやな」と言われたことも懐かしい。

その兵庫は、公立館としては、1951(昭和26)年に開館していた神奈川県立近代美術館に次いで2館目の「近代美術館」であった。そして、前回も記したように、兵庫開館の翌月にあたる1970(昭和45)年の11月、前身の和歌山県立美術館を引き継いで当館、和歌山県立近代美術館が開館した。神奈川県立近代美術館開設以降には、東京と京都に2館の「国立近代美術館」が開館していたから、わが国の「近代美術館」は、ようやく1970年代を迎えて、全国的にも始動しはじめたことになる。

今日、わが国の美術館は、設置母体によって、国立(独立行政法人)館、県や市、区立などの公立館、そして私立の館などに分けられ、それぞれの行政や財団などの区分によって各美術館が成立し、活動を行うという「事情」がある。しかし、こうした美術館各館が立脚する基盤以上に、とりわけわが国の近代美術館について語ろうとすれば、むしろきわめて個性的な「人」たちが、各美術館の運営に大きく関わってきたことが指摘できる。

周知のように、神奈川県立近代美術館の活動をリードしたのは、開館時には副館長職にあり、1965(昭和40)年に館長となりほぼ30年にわたって在職した土方定一氏であった。また、国立近代美術館の開館時には次長職で、その後、国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)長となった今泉篤男氏、その後任として、国立近代美術館次長を経て、京都国立近代美術館長を17年勤めた河北倫明氏などが、わが国の近代美術館創設期に際し、各美術館を象徴するともいうべき代表者であった。今日では、各館の組織としてのまとまりが強く求められることもあって、こうした一個人が館を代表するということもない。

私が、このことをとりわけ実感したのは、2013(平成25)年に、京都国立近代美術館の開館50年に際して『50年史』を編集していた時だった。それは、京都の初代事業課長の乾由明氏、その後学芸課長、館長職に就かれた内山武夫氏が、ともに初代分館長の今泉篤男氏の指導のままに館活動が行われてきたとことを、ことさら強調されていたからでもある。この時、私は『50年史』に「京近美の50年」を掲載したが、内山氏には拙稿のすべてに目を通していただき、いたらぬ箇所を指摘、修正いただいた。

そして、私が最初に勤務していた兵庫でも、前述の増田氏が、開催する展覧会のほぼすべてを決定され、普及課設置など、館の柱となる基本運営を、長きにわたる学芸員活動を背景に実行されていた。さらに1970年代から80年代にかけて、もう若い学芸員たちは、その名も知らないだろうが、たとえば栃木県立美術館長であった大島清次氏、北海道立近代美術館長を務められた倉田公裕氏などの言動が、公立美術館を象徴していた状況も思い浮かぶ。

1970年代以降には、周知のように、全国各地に公立の美術館、そして近代美術館が続々と建設された。その際、「近代美術館」という名称を冠する理由のひとつに、各館が位置する「郷土」の現存作家や美術界の現状紹介が掲げられたた。同時に、「郷土」のいわば「モダン・アート」史を跡づける作業が行なわれる。兵庫県の場合では、「県内洋画壇回顧」、あるいは「県内日本画壇回顧」という展覧会が開催され、実現はしなかったが、「県内書壇回顧」なども視野に、近現代の「郷土の歴史」再編が試みられた。そして「兵庫県立」としての明確な立地条件を押し出す展覧会の開催が柱となっていた。美術館独自に県内作家を選び、作品制作を依頼する展覧会も開催された。同時に、普及活動の一環として「県展」を開催し、展覧会のラインアップは、美術館が独自に企画する展覧会、そしてわが国独自の開催形態である新聞社との共催による大型企画展などを織り交ぜたものとなっていった。

このように、地方自治体が母体となって運営される「近代美術館」のひとつの典型例が、1970(昭和45)年に開館した兵庫県立近代美術館の活動に凝縮されていたと思われる。加えて兵庫では、関西圏の現代美術展として、唯一京都国立近代美術館で開館の翌年(1964年)から開催されていた「現代美術の動向」、及び「現代美術の鳥瞰」展を引き継ぐように、「アート・ナウ」を1975(昭和50)年から開催し、関西のアート・シーンを呈示する「近代美術館」の柱というべき展覧会となった。

次回は、さらに展覧会について触れてみたい。

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