美術館の大切な仕事として、調査研究と収集活動があります。ではなぜ美術館は収集を行うのでしょうか。また調査研究とは一体どういうことをしているのでしょうか。
美術作品はそれ自体、人類が行った優れた創作活動の成果であり、また、地域に関わる文化や歴史を物語ります。これらについて、またこれらを手がかりに学ぶことで、私たちは過去から現在まで続く幅広い時間の広がりのなかで物事を考えることができます。そして美術作品を後世に伝えることは、未来の人々の学びへもつながります。こうした目的のもと、美術館はそれぞれの地域的、文化的特質に基づいて収集を行います。
そして何を集めるかを決め、その必要性を考えるために行うのが調査研究です。集めた作品や資料を観察し、データを取り、関連するさまざまな手がかりを頼りに、作家や作品の情報、活動歴などをまとめること、言い換えると、一次資料を整理し、情報として扱えるかたちにすることもまた、調査研究に含まれます。名前をつけ、記録をとり、整理することで、ものは残すべき対象として扱うことができるようになります。
こうした美術館での調査研究の成果は、展覧会というかたちで示され、新たな学びや発見を生み出すきっかけともなります。展覧会に際して刊行する図録はその成果を公にし、作品や資料の価値を広く、時代を超えて伝える大切な記録です。
さらに調査研究は、先達の仕事を引き継ぎ、継続することでより厚みを増していきます。当館では、和歌山県立美術館時代から収集した和歌山ゆかりの作家の作品に加えて、細かな調査資料が、現在にいたるまで引き継がれてきました。その収集と調査研究の積み重ねは、地域ならではの傾向を見いだすことにもつながります。例えば和歌山には版画を主な表現の手段とした作家や、移民として海を渡った画家たちが多いことなどです。浮かび上がった特徴は、和歌山という地域の文化や歴史を物語る個性であり、それらの項目をまとめた収集方針に基づいて、当館は体系的なコレクションを築き続けています。
1963年に和歌山県立美術館が開館すると、川口軌外や日高昌克など、県ゆかりの作家を個展形式で取り上げる展覧会が継続して開催されます。そのなか、1968年に開催された「明治100年記念 郷土作家回顧展」は、明治時代から開催当時までに活動した、和歌山県ゆかりの物故美術家について、網羅的に紹介することを目的としたものでした。その開催に向けて、事前に行われた大規模な調査は、近代美術館の基礎を作る仕事ともなります。
調査は、洋画、日本画、彫刻など、各分野にどのような作家がいたのかを洗い出すことからはじまりました。作家が分かれば、次に遺族や関係者の連絡先を調べて問い合わせの手紙を送り、そこに同封した調書に経歴や作品の所在などを記載して返送してもらうというものでした。そしてさらには、返送された情報をたどって作品を探し、出品交渉の上で借用、展覧会で紹介しています。
この時の調査で残された調書のなかには、現在ではたどることが難しい情報も多く、それぞれの作家について調べるための重要な手がかりを与えてくれます。個人情報も多く調書は一般に公開できませんが、その調査を元に、『郷土の美術家 明治・大正・昭和の物故作家』(和歌山県立美術館、1968年)が編集、刊行されており、各作家に関する情報はそこで確認することができます。
以降、この章では、和歌山県にゆかりのある4人の作家の作品と資料を通して、当館における収集と調査研究の実際と成果をご紹介していきます。
保田龍門は1891年、和歌山県那賀郡龍門村(現、紀の川市)に生まれた画家であり、彫刻家です。本名を重右衛門といい、5人兄弟の末子、生家は農業を営んでいました。医学の道へ進むも、美術への思いが断ちがたく、20歳を過ぎてから東京美術学校に入学。卒業した1917年、第11回文展に出品した絵画《母と子》(和歌山刑務所蔵)が特選となり、美術家としての道が開けます。作品のモデルとなり、進む道を変わらず後押ししてくれた母の深い愛情は、生涯を通じて制作テーマであり続けました。
フランス留学を果たし、帰国後は郷里に西村伊作の設計によるアトリエを建築、日本美術院彫刻部の主要な作家として活動します。戦後、1953年には和歌山大学学芸学部の教授となって指導にあたり、1965年に亡くなります。
展示中の彫刻《少女》が、先述の「明治100年記念 郷土作家回顧展」で紹介された翌1969年4月には、回顧展となる「郷土出身大家展 保田龍門」が開催されます。没後4年での開催は、当時から県を代表する美術家として考えられていた状況を物語ります。展覧会後に《少女》は、県立美術館に収蔵された最初の保田龍門作品となりました。
1994年に新しい近代美術館が開館すると、開館記念展の2本目として、「大正のまなざし—若き保田龍門とその時代—」展を開催することになります。展覧会に向けて改めて大規模な調査が行われ、作品の収集にも力が注がれました。子息の彫刻家、保田春彦氏やご親族からは数多くの作品とともに、写真や蔵書などの関連資料も多数ご寄贈いただきました。龍門が筆入れに使っていたという西村伊作の陶芸作品もそのひとつです。所蔵家からも作品寄贈の申し出をいただき、展示中の《四季(春夏秋冬)》は近年に収蔵した重要な作品です。作品と資料のつながりは、作者や作品のより深い理解へと導きます。
野長瀬晩花は1889年、和歌山県西牟婁郡近野村(現、田辺市近露)に生まれました。本名は弘男です。大阪や京都の画塾で絵を学び、1909年には京都市立絵画専門学校に入学しました。学校は2年で中退しますが、同世代の美術家や竹久夢二とも交流を深め、明治末から大正時代の京都で、既存の画壇とは距離を置いた、モダンで奇抜な作品を手がけて注目されます。1918年には、学校の同窓生であった小野竹喬、榊原紫峰、土田麦僊、村上華岳と、新しい日本画の創設を掲げて国画創作協会を創設します。
当館が1970年に開館したのち、郷土作家に関する最初の企画展でとりあげたのがこの晩花でした。1971年3月に開催した「大夢・晩花」展は、彫刻家の建畠大夢との二人展という形で、和歌山が誇る画家としてその作品を紹介しました。画家本人は1964年に亡くなっており、展覧会に際しては妻の婉子氏の全面的な協力をいただくとともに、生前に交流のあった関係者の元など、大規模で細かな調査が行われています。
婉子氏からは、スケッチブックやアルバムなど手元にあった資料の多くをご寄贈いただき、それらは作家や作品を研究するための重要な手がかりとなっています。またこの時には、晩花の画業をたどる上で欠かせない重要な作品が、関係者から購入や寄贈という形で収蔵されています。
主に調査に当たったのは、大学教員を務めつつ1967年より嘱託職員として専門家の立場から美術館の活動を支えた和高伸二と、当館初代学芸員の酒井哲朗です。和高がこの時の調査を元にまとめた『野長瀬晩花』は、今も晩花の研究に欠かせない重要な資料です。
近年では、国画創作協会の活動を紹介する「国画創作協会の全貌展」(2018年)を開催し、また1921年にともに渡欧した黒田重太郎の作品を収蔵するなど、調査研究や関連作家を含めた作品の収集を継続しています。とはいえ、50年前に行われた貴重な仕事の成果を十分に生かすことが、先輩からの宿題として現在の職員に与えられています。
石垣栄太郎は、1893年に和歌山県東牟婁郡太地村(現、太地町)に生まれました。移民としてアメリカに渡っていた父に呼ばれて渡米、同地で画家となります。民衆の立場から社会的な問題を主題とした作品を描き、メキシコの壁画運動にも影響を受け、アメリカで認められました。戦中もアメリカにとどまり、1951年に帰国。1958年に亡くなります。
当館では移民を多く輩出した和歌山県の歴史を踏まえ、浜地清松やヘンリー・杉本ら、戦前の渡米画家たちの仕事を、展覧会や調査研究、作品収集の重要なテーマとしています。そのきっかけとなっているのが、妻である石垣綾子氏から、まとめて寄贈を受けた石垣栄太郎の作品です。
石垣の作品では、1階展示室(「コレクションの50年」展)で展示していた《街》が、1965年度に収蔵した最初の作品です。その後、1967年度に油彩画を中心とする19点、1982年度に200点近くのデッサンなどを綾子氏よりご寄贈いただいています。合わせて展覧会での紹介も継続し、1966年の「石垣栄太郎遺作展」をはじまりに、1972年には「アメリカにおける日本人作家回顧展」として、石垣、杉本、国吉康雄の3人による展覧会を開催しました。このテーマはさらに広がり、1987年の「太平洋を越えた日本の画家たち アメリカに学んだ18人」、新館開館後は1997年に「アメリカの中の日本 石垣栄太郎と戦前の渡米画家たち」、そして2013年の「生誕120年記念 石垣栄太郎展」、2015年の特集展示「アメリカ移民の歴史と芸術家たち」や2017年の「アメリカへ渡った二人 国吉康雄と石垣栄太郎」展へとつながります。
この間、綾子氏が設立し太地町へ寄贈された石垣の顕彰施設である、太地町立石垣記念館との共同研究を進めるほか、破壊されて現存しない重要な壁画に関わる油彩作品をアメリカから里帰りさせて収蔵するなど、調査研究、収集の積み重ねを行っています。石垣記念館との共同研究は現在も継続しており、その成果を改めて紹介するべく作業を進めています。
ここでは村井正誠の作品2点を通して、作品保存に関わる仕事をトピックとして紹介します。
村井正誠は、岐阜県大垣市に生まれ、本県東牟婁郡新宮町(現、新宮市)で育ちます。同地には文化学院を創設する西村伊作がおり、その創作活動を見て美術に関心を抱きました。上京して西村の文化学院で美術を学び、渡欧。同地で受けた様々な影響から、抽象表現へと進み、昭和から平成にかけて抽象絵画のパイオニアとして活躍を続けました。
当館では県ゆかりの作家として作品の収集を行い、1979年に開催した「村井正誠展」をきっかけに、戦前の作品から近作まで、19点の油彩画と6点の版画を作者本人よりご寄贈いただいています。ここで紹介している《アラブの窓》もそのひとつです。
収蔵した作品は、その状態を見ながら、必要に応じて専門家に修復を依頼することがあります。《アラブの窓》は、2005年に修復作業を行いました。この作品は、3つのキャンバスに描かれた絵をつなげた構造をしています。いずれの画面も元々あった自分の古い絵(古キャンバス)の上に絵具を重ねて描かれており、絵具層が厚く、亀裂や皺などが発生しやすいため、状態の改善が必要でした。
その修復作業に際して、中央の画面の下から発見されたのが、《ロンバルディア》です。画面を重ねて木枠に留められていました。作者が1955年に同作について文章で触れた際には、自身も写真を見て確認していると書いていますので、長い間その状態にあり、そのまま当館に寄贈されたと考えられます。《ロンバルディア》も村井にとって重要な作品であったために貴重な発見となり、こちらも合わせて修復を行いました。
作品のとなりに展示しているのは、その修復記録と当館学芸員による研究論文、そして作品のカードです。美術館で収蔵する作品には、作品名や寸法などの情報を記載し、写真が印刷または貼り付けられた作品カードが作られています。各館によって形式はさまざまですが、当館では個別フォルダーを作り、作品に関する文献や作品の展示記録など、作品にかかわる情報を、電子媒体に加えて紙媒体でも管理し、残しています。
ここに並ぶのは、学芸員が作品の調査に赴く時に持参する道具類の一部です。それぞれが手にあった使いやすい道具を選び、現場や作品に応じて持参するものを選びます。代表的なものを簡単に紹介しましょう。
マスクや手袋
作品の汚損防止はもちろん、自分自身を保護する目的もあります。カビや埃は人体に有害です。それらが多い現場では、全身を覆う防護服やゴーグルを着用することもあります。作品を扱う際に日常的に着用するものですので、新型コロナウイルス感染症の拡大により、極端な品薄となった状況は困りました。
カメラとフィルム
調査先や館内で作品や資料を記録するために使います。印刷物に使用する写真の撮影は、プロのカメラマンに依頼することが多いです。大判から35mmまで、フィルムカメラが長年使用されてきましたが、近年特に調査の際はデジタルカメラが主流になっています。
鉛筆、赤鉛筆(色鉛筆)、調書
美術館の展示室と同様、調査時の記録には鉛筆を使います。作者やタイトル、制作年などの情報を書き込めるよう、あらかじめ白紙の調書を準備することもありますし、ノートに記録をとっていくこともあります。
また状態の記録には、亀裂や剥落など、状態ごとに鉛筆の色を分けて記述することもあります。特に作品の貸し借りに際して、状態を調書に書く時に使われるのが赤鉛筆です。作品借用の際には必ず準備します。
メジャー
大きさを計測します。作品に応じて樹脂製のいわゆる布メジャー、金属製の巻き尺などを使い分けます。作品の近くで使いますので、計測時は注意が必要です。
小型のライト
現場が暗い時や、状態を詳細に観察する時に使います。実際に作品に光を当てる場合には、調査先に了解をとる配慮が必要です。
お手元のスマートフォン
調査に赴く際には、相手先との日程調整を行い、住所を確認して移動手段を調べます。交通機関や時に宿泊先を予約、調査後は礼状を出すこともあります。近年はメールで日時の調整を行い、インターネット上で世界中の詳細な地図を見ることができますが、それがないときは住宅地図を含め、図書館で地図帳を調べることもありました。手紙や地図のコピーなど、調査時のやりとりは作家や作品に関わる情報として残します。ただ近年はメールやSNSなどでの連絡も多く、館の記録として残すためには、印刷する必要があります。
美術作品の収集基本方針
和歌山県立近代美術館美術作品収集方針