4.託されるコレクション

作品収集の手段には購入という方法もありますが、当館では作品をいただく「寄贈」という方法で収蔵された作品点数の方が多くなっています。美術作家本人やその親族、コレクターなどからお申し出をいただくこともあれば、展覧会の調査を通じて見つかった作品をお譲りいただけるよう、美術館側からお願いをすることもあります。「ください」とお願いするのは図々しく見えるかもしれませんが、その作品や資料の価値を社会全体の財産として先々まで残していく意味をご理解いただき、これまでおよそ8000点の作品をご寄贈いただいています。

 当館では田中恭吉や石垣栄太郎ら、地元作家の貴重な作品や資料をまとめてご寄贈いただいているほか、佐伯祐三のコレクションなど、日本の美術史を考える上で重要な作品の寄贈も数多く受けています。また現代美術コレクターから1000点を超える作品の一括寄贈を受けるなど、メディアからの注目を集めた事例もあります。さらには当館の版画コレクションの充実を目的として結成されたグループが作家と美術館の橋渡し役となって、作品をご寄贈いただいたこともありました。

 けれども残念ながら、すべてのお申し出を受けることはできません。これまでの活動を通じて築き上げてきた収集方針に則った活動を続けていくことが、美術館の責任として求められるからです。そのため作品の受け入れにあたっては、学芸員による事前の調査に加え、「美術作品選定委員会」と呼ばれる外部有識者会議での了承を得る必要があるなど、いくつもの手続きが行われます。それは作品購入の場合も同じです。

 このパネルの冒頭に寄贈とは「いただく/もらう」ことだと記しました。手続きによって所有者は確かに美術館に移りますが、将来の世代に責任を持って作品を引き継ぐという意味では、美術館のコレクションは社会全体の財産をお預かりしたものです。寄贈とは日々の活動への信頼に基づいて、美術館へ託された未来への願いなのだと受けとめています。

 ここでは、さまざまなかたちでご寄贈いただいた作品を、そのごく一部に過ぎませんが、ご寄贈者とともにご紹介いたします。

会場風景(左から)<br>川口軌外《港》1957(昭和32)<br>高井貞二《故郷の風景》1956(昭和31)<br>村井正誠《母と子》1952(昭和27)

作者本人から

川口軌外《港》1957(昭和32)

油彩、キャンバス 作者寄贈(1964年度)

1963年3月に開館した和歌山県立美術館では、7月に「第1回郷土出身大家作品展」として「川口軌外展」が開催されました。翌年度、本作は作者本人より寄贈されており、キャンバスの裏に「展覧会記念/寄贈/川口軌外」という書き込みがあります。同じ時に美術館が購入した作品が、現在1階展示室で展示中の《少女と貝殻》です。以降、川口は当館のコレクションを形成する中心作家のひとりとして、関係者からの寄贈や購入による作品収集を継続しています。

高井貞二《故郷の風景》1956(昭和31)

油彩、キャンバス 作者寄贈(1979年度)

高井貞二は高野口町で育ち、旧制伊都中学校在学中に絵を描きはじめます。卒業後大阪で働きながら絵を学び、19歳で上京すると、その年の二科展で早くも入選を果たしました。戦前は東京で活動し、戦後1954年にはニューヨークへ移住、長らく同地で活躍しました。当館では作者本人より1978年度と翌年度に、初期から滞米中の近作まで画業を通覧する130点余りの作品寄贈を受け、1979年10月の「高井貞二展」で紹介しました。その後、関係者からも新たな作品をご寄贈いただいています。

村井正誠《母と子》1952(昭和27)

油彩、キャンバス 作者寄贈(1979年度)

村井正誠は岐阜県大垣市に生まれ、本県新宮市で育ちます。同地で文化学院を設立する西村伊作の創作活動を見て美術に関心を抱き、上京して同学院で美術を学びました。当館では県ゆかりの作家として作品の収集を行い、1979年に開催した「村井正誠展」をきっかけに、戦前の作品から近作まで、19点の油彩画と6点の版画を作者本人よりご寄贈いただいています。その後も継続して作品の紹介を行い、関係者からも新たな作品をご寄贈いただきました。

会場風景(左から)<br>泉 茂《焦燥》1993(平成5)<br>建畠覚造《WAVING FIGURE 36A(小)》1986(昭和61)頃<br>建畠覚造《WAVING FIGURE 37B(小)》1986(昭和61)頃<br>建畠覚造《ドローイング》1991(平成3)頃<br> 建畠覚造《WAVING FIGURE 32(大)》1986(昭和61)

関係者から

泉 茂《焦燥》1993(平成5)

アクリル絵具、キャンバス 泉照子氏寄贈(2016年度)

寄贈者の泉照子氏(1925– )は、日本における服飾デザイナーの先駆者のひとりです。1951年、26歳の誕生日に画家の泉茂と結婚、ともに赴いたニューヨークやパリで、その仕事に就きます。帰国後は大阪で活躍されました。氏は1995年に夫が亡くなったのち、残された作品をいくつかの美術館へ寄贈されています。「関西の美術家シリーズ」の第1回展で紹介して以降、つながりが生まれた当館には、ほぼ全ての版画作品と、各時代の主要な油彩やドローイング作品、1000点余りをご寄贈くださいました。

作者本人・関係者から

建畠覚造《WAVING FIGURE 36A(小)》1986(昭和61)頃

木、ウレタン塗料 建畠嘉氏寄贈(2007年度)

建畠覚造《WAVING FIGURE 37B(小)》1986(昭和61)頃

木、ウレタン塗料 建畠嘉氏寄贈(2007年度)

建畠覚造《WAVING FIGURE 32(大)》1986(昭和61)

木、ウレタン塗料 作者寄贈(1999年度)

建畠覚造《ドローイング》1991(平成3)頃

鉛筆、紙 建畠嘉氏寄贈(2013年度)

建畠覚造は、有田川町出身の彫刻家、建畠大夢の子息であり、日本における抽象彫刻の第一人者として戦後長らく活躍しました。生前より作者本人から継続して作品をご寄贈いただき、2006年に逝去された後は妻の嘉氏より遺作の寄贈申し出を受けました。つながりのあった美術館が共同でアトリエの調査を行い、特に残された大量のドローイングは当館の職員が歴代仕事を引き継いで整理に当たりました。当館に寄贈された1940年代から没する直前までの2700点あまりのドローイングは、建畠の造形思考の源泉や制作過程を伝えるものです。

会場風景(左から)<br>田中恭吉《バラの刺》1914(大正3)<br>恩地孝四郎《海の女》1912(明治45/大正元)<br>藤森静雄《花》1915(大正4)

関係者から

田中恭吉《バラの刺》1914(大正3)

油彩、キャンバス 恩地邦郎氏寄贈(1987年度)

恩地孝四郎《海の女》1912(明治45/大正元)

油彩、キャンバス 恩地邦郎氏寄贈(1987年度)

藤森静雄《花》1915(大正4)

油彩、キャンバス 恩地邦郎氏寄贈(1987年度)

恩地邦郎氏(1920–2001)は、恩地孝四郎の子息です。教員を務めるとともに創作活動を行い、また父の作品研究も行いました。1987年度には、父が若き日に創作活動をともにした田中恭吉に関わる作品と資料を、まとめてご寄贈くださっています。それらは、1915年に田中が23歳で没したのち、親友であった恩地孝四郎が引き継ぎ大切に守り続けたものです。親友の子を通じて1000点を超える作品と資料は郷里に帰り、田中の短くも濃密な創作活動を今に伝えます。

会場風景(左から)<br>浜地清松《暖炉》1911(明治44)<br>佐伯祐三《オプセルヴァトワール附近》1927(昭和2)<br>梅原龍三郎《静浦(口野)風景》1929(昭和4)<br>ラウル・デュフィ《コンポティエのある静物》1940(昭和15)頃

地域から

浜地清松《暖炉》1911(明治44)

油彩、キャンバス 古座町立津荷小学校寄贈(2004年度)

浜地清松は、串本町津荷に生まれ、1901年に渡米し画家となりました。和歌山県は戦前に多くのアメリカ移民を輩出しますが、浜地もそのひとりです。1920年に帰国、さらに再渡米、渡欧後、1928年からは国内で活動を続けました。本作は、郷里の津荷小学校に戦前より飾られてきたと伝わります。浜地のアメリカ時代の油彩画はほとんど残っておらず、貴重な作品です。2005年4月、古座町が串本町と合併し、津荷小学校が閉校となるのを機会に、当館に寄贈していただくこととなりました。地域の歴史は、作品とともに引き継がれていきます。

支援者から

佐伯祐三《オプセルヴァトワール附近》1927(昭和2)

油彩、キャンバス 玉井一郎氏寄贈(1994年度)

玉井一郎氏(1926–2003)は歯科医師を務めながら、和歌山県の文化振興に大きな貢献をされました。当館では、県立美術館時代より運営協議会委員として活動をご支援くださり、友の会会長も務められました。和歌山版画ビエンナーレ展の開催にあたっては、実行委員会の委員長として運営を支えられます。ご寄贈くださった多くの作品のなかでも、特に1994年に新館が開館するにあたりご寄贈いただいた14点の佐伯祐三作品は、当館の活動を充実させる重要なコレクションです。

支援者から

梅原龍三郎《静浦(口野)風景》1929(昭和4)

油彩、キャンバス 篠田博之氏、めぐみ氏寄贈(2002年度)

医師の篠田博之氏(1929–2011)と妻のめぐみ氏(1938–2009)は和歌山の医療を支えるとともに、文化財保護に関わる仕事にも取り組まれました。多くの人に優れた美術作品を見て欲しいというご意志から、収集された絵画21点を2001年度より数度にわたってご寄贈くださいました。ジョルジュ・ルオーや梅原龍三郎など、当館では収蔵できていなかった作家の油彩画のほか、生前に活動を支援された日本画家、井上永悠の作品が含まれています。

支援者から

ラウル・デュフィ《コンポティエのある静物》1940(昭和15)頃

油彩、キャンバス 森林平氏寄贈(2001年度)

すさみ町出身の森林平氏(1921–2005)は、森精機製作所(現DMG森精機)を創業し、工作機械製造のトップメーカーに育てられました。和歌山県師範学校を卒業された縁から、その跡地に設立された当館に、2001年度、収集された絵画10点をご寄贈くださいました。ラウル・デュフィ、キース・ヴァン・ドンゲンなど、当館では収蔵点数の少ない、西欧の作家の油彩画が含まれています。

会場風景(左から)<br>山本容子《To the park》1978(昭和53)<br>安東菜々《Electric Wire 4》1977(昭和52)<br>田中孝《Tree》1977(昭和52)

支援者から

山本容子《To the park》1978(昭和53)

エッチング、紙 ブリッジ寄贈(2000年度)

安東菜々《Electric Wire 4》1977(昭和52)

シルクスクリーン、紙 ブリッジ寄贈(2000年度)

田中孝《Tree》1977(昭和52)

シルクスクリーン、紙 ブリッジ寄贈(2000年度)

ブリッジは、当館が収集を継続している版画コレクションの充実を目的として結成された匿名のグループです。特に現代版画に関して、自分たちで作家や作品の研究を行い、美術館のコレクションを勘案した上で作品を収集、寄贈してくださいました。安東菜々、野田哲也、山本容子など、重要な作家の作品53点が2000年度に当館のコレクションに加わることで、現代版画の分野が一層充実することになります。

会場風景(左から)<br>佐伯祐三《オプセルヴァトワール附近》1927(昭和2)<br>梅原龍三郎《静浦(口野)風景》1929(昭和4)<br>ラウル・デュフィ《コンポティエのある静物》1940(昭和15)頃<br>名和晃平《PixCell - Sheep》2002(平成14)<br>横尾忠則《MAJOR ARCANA》1985(昭和60)<br>パラモデル《パラモデリック・グラフィティ(沢田マンションの屋上庭園)》2007(平成19)<br>撮影=長岡浩司

支援者から

横尾忠則《MAJOR ARCANA》1985(昭和60)

リトグラフ、紙 堀内俊男氏寄贈(2000年度)

堀内俊男氏(1935–2014)は、1974年海南市に画廊ビュッフェを開業され、1977年に画廊ビュッフェファイヴと改名、数多くの展覧会を通して、美術館では取り上げきれない多様な美術を紹介されてきました。穏やかな人柄と誠実な仕事から多くの人と信頼関係を築かれ、特に地元の作家に関する情報は、美術館職員が教えを請うことも多く、美術館活動をさまざまに支えてくださいました。堀内氏からは和歌山ゆかりの作家の貴重な作品をご紹介いただくとともに、当館のコレクションを補うように、現代版画を中心とする作品をご寄贈いただいています。

コレクターから

名和晃平《PixCell - Sheep》2002(平成14)

ミクストメディア 田中恒子氏寄贈(2009年度)

パラモデル《パラモデリック・グラフィティ(沢田マンションの屋上庭園)》2007(平成19)

ラムダプリント 田中恒子氏寄贈(2009年度)

田中恒子氏(1941– )は、住居学の研究者として大学で教鞭を執り、同時に現代美術のコレクターとして作品を購入することで多くの作家の活動を支援されてきました。自宅で作品とともにある暮らしを実践されてきましたが、作品の保存と公開を考え、社会に美術の価値を残し、未来にわたって共有するために、美術館への一括寄贈を考えられました。田中氏は、当館のそれまでの活動を評価してくださり、コレクションの寄贈先として当館を選んでくださいました。2009年度を中心にご寄贈くださった1000点を超える作品は、多様な価値観にあふれ、当館の活動に新たな展開をもたらしています。

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5.見せてのこす 展覧会とサステイナビリティ