和歌山県立美術館の設置
昭和30(1955)年に行われた第1回の社会教育調査によると、県内の博物館相当施設には、高野山霊宝館(大正10年・高野町・美術)・熊野神宝館(昭和30年・新宮市・美術)・番所山植物園(昭和8年・白浜町・植物)があった。しかし、県立の美術館・博物館はなく、美術工芸品等の収蔵や絵画の展覧会等に使用できる施設の設置が各方面から求められていた。例えば、同30年に、和歌山大学長らが、和歌山市に総合的な美術館の設置を求めるという動きがみられたほか、県美術家協会が中心となって美術館建設を求める活動などが行われた。こうした動きを受けて、同36年に県・県議会・教育委員会と美術家協会の代表者で構成する美術館建設委員会が設置されることとなり、同37年7月に起工、翌38年3月、和歌山公園内二の丸跡に和歌山県立美術館(以下県立美術館)が開館した。
県立美術館は、県内における美術の進歩・発展と県民の美的教養の向上推進を図り、文化全般の振興に貢献することを運営方針としていた。活動としては、文部省と県教育委員会の共催による明治・大正・昭和名作美術展や松方コレクション展、郷土出身大家作品展(川口軌外・日高昌克・川端龍子)、紀州陶磁器展、伝統工芸秀作展、県美術展(昭和24年から県教育委員会と共催)、県美術家協会展等を開催した。収蔵品については、開館当初は所蔵していなかったが、同41年に太地町出身の石垣栄太郎の作品20点が寄贈されるなどわずかずつ増加が図られ、翌42年には収蔵庫も完成した。
このほか、写真展やグループ・個人絵画展、謡曲や書道等、各種団体の使用にも応じ、ギャラリー(貸会場)としての性格を強く持った運営が行われた。その後、同44年には、課題となっていた学芸員が嘱託職員として1人採用され、調査研究を基礎に作品の収集と企画展示を行うミュージアムとしての活動が行われるようになり、本格的な自主企画展「保田龍門展」が開催された。なお、同40年12月には美術館友の会が結成され、「美術館だより」の発行も行われるようになった(『和歌山県政史』3、『和歌山県の教育』昭和39~44年度、『県展のあゆみ 県美術展20周年記念』)。
和歌山県立近代美術館の設置
県立美術館の基本方針を審議する運営協議会では、より良い展示環境や収蔵環境を求めるため、新美術館についての構想が同43年頃から検討されていたが、そうした中で、同45年秋の開館を目指して建設が進む和歌山県民文化会館(以下県民文化会館)内への移転機運が高まっていった。そして、同45年11月2日、県民文化会館1階に、我が国で5番目の近代美術館として和歌山県立近代美術館(以下近代美術館)が開館した。
近代美術館の延床面積は1,740平方メートル、展示室4室の総面積は1,058平方メートル、収蔵庫面積は99平方メートル、美術教室は66平方メートルであった。近代美術館は、美術団体への貸会場(ギャラリー)の性格を併せ持ちながら、近代美術の調査研究を基礎とした作品収集と自主企画展、コレクション展、そして教育普及活動を発展させていくことになった。同47年6月20日には、県立博物館、紀伊風土記の丘資料館(現紀伊風土記の丘)とともに、博物館法の規定による登録博物館となった。
なお、近代美術館の設置に伴って県立美術館は廃館となり、建物は改装のうえ、翌年4月に和歌山県立博物館(以下県立博物館)として使用されることとなった。県立美術館が有していた近世以前の歴史及び美術史に関する業務は、県立博物館に引き継がれた。
和歌山県立近代美術館の自主企画展と作品収集
和歌山県立美術館(以下県立美術館)から引き継がれた作品は、川口軌外3点、石垣栄太郎21点、保田龍門14点、浜口陽三12点など合わせて83点で、当時、高額の美術作品を揃えて開館した地方美術館の動きとは異なっていた。年間の作品購入費も開館時で年間約70万円、同48年~52年までは1,000万円であったが、それを有効に使う方法として、本県ゆかりの作家を中心に、年2~3回の自主企画展の開催と関連させて作品が購入された。
自主企画展で取り上げた美術家は、同45年のの野長瀬晩花(日本画)と建畠大夢(彫刻)をはじめ、原勝四郎(洋画)、石垣栄太郎(洋画)、ヘンリー杉本(洋画)、川口軌外(洋画)、吉田政次(版画)、硲伊之助(洋画)、木下孝則(洋画)、木下義謙(洋画)、田中恭吉(版画)、川端龍子(日本画)、日高昌克(日本画)、神中糸子(洋画)、村井正誠(洋画)、高井貞二(洋画)、恩地孝四郎(版画)、逸見享(版画)、下村観山(日本画)、建畠覚造(彫刻)と続き、昭和57年には稗田一穂(日本画)を紹介した。いわゆる「郷土作家シリーズ」である。
また、郷土の美術家とその活躍した時代をテーマとしたシリーズとして、「1910年代における京都日本画の新動向展」(昭和51年)や「開館十周年記念 1930年協会の作家たち展」(昭和55年)などがある。同58年には、「和歌山の作家と県内洋画壇展(1912~1945)」を開催し、大正初年から第2次世界大戦までの和歌山の洋画家達の県内外での活躍を探った。作品・資料の調査研究を基礎に企画展を開催し、その自主企画展を契機に作家、遺族、所蔵家から作品を譲り受け、それらの作品資料を基礎にしてまた新たな視点で自主企画展を開催する。こうした積み重ねの中で郷土作家を中心とするコレクションと資料の核が形成されていった。
このような郷土作家の展覧会に加え、昭和58年からは関西の現代美術家を軸とする展覧会のシリーズも始まった。この年の「津高和一・泉茂・吉原英雄展」をはじめ、「関西の美術家シリーズ」は平成3(1991)年まで8回を数え、27名の作家を紹介した。戦後の関西に興った前衛美術運動「走泥社」(陶芸)、「パンリアル美術協会」(日本画)、「デモクラート美術家協会」(洋画・版画)、「具体美術協会」(洋画)等で活躍した美術家をはじめとする作品も展覧会を契機に取得され、戦後美術コレクションの核となった。
近現代版画のコレクションと和歌山版画ビエンナーレ展
近代美術館が開館した1970年代は、その後半に入ると大型の公立美術館が全国各地に建設され、個性的な美術館活動を競い始めた時期であった。本県でも郷土作家コレクション、戦後美術コレクション以外に新たな収集の柱を加えることはできないかと検討が重ねられたが、その中で選ばれたのは版画である。なぜなら、本県ゆかりの美術家には、我が国の版画界の指導者であった恩地孝四郎、恩地と共に版画集『月映』を刊行した田中恭吉、日本創作版画協会や日本版画協会で活躍した逸見享、硲伊之助、また戦後の国際的な版画展で受賞を重ねた吉田政次、浜口陽三、村井正誠といった近現代版画史を飾る重要な美術家たちが多くいるからである。また版画は他のジャンルに比べ安価なため、優れた作品を収集できる可能性が高いと考えられた。こうして、近代美術館は、昭和55(1980)年頃から本格的に版画作品の収集を行い、同60年に第1回展が開催された「和歌山版画ビエンナーレ展」は、版画に関するコレクションと活動に厚みを加えるとともに、多くの人々に版画芸術についての理解を深めてもらいたいという目的で立ち上げられた企画であった。
この展覧会では才能ある新人作家の育成や発掘のために、招待制ではなく一般公募の形式がとられ、またモノタイプ(1点制作の作品)を認め、作品の大きさは制限しないという点も大きな特色であった。運営は、民間の実行委員会が資金面を、近代美術館が実務面を分担し、経費の大半は実行委員会の活動による個人の寄附によってまかなわれるという独創的なものであった。海外を含めて毎回著名な審査員を迎え、賞金も破格(第1回の賞金総額は400万円)であったこの公募展は話題を呼び、初回で1,000点余り、海外の作家にも積極的に呼びかけた2回展から平成5(1993)年に行われた最終の5回展まで、毎回50か国前後の国から計2,000~3,000点の応募があった。「ビエンナーレ」というのはイタリア語で、「2年ごとに開催される国際美術展」という意味であるが、文字どおり国際的な公募展となった。
近代美術館は、このように自主企画展の開催と作品・資料の収集を連携させながら、本県ゆかりの作家、戦後美術コレクション、国内外の近代・現代版画というコレクションを蓄積していった。しかし、作品の収集が進むにつれて、99平方メートルの収蔵庫は手狭となり、コレクション展は、総面積959平方メートルという展示室において、貸館の合間を縫って不定期に開催せざるを得なかったので、年間を通してコレクションを紹介でき、新時代に対応できる関係諸設備を整えた単独施設を望む声が高まっていった。
近代美術館の構想と準備
このような背景のもとで、前述のように昭和58(1983)年6月から、和歌山大学跡地を近代美術館等の建設用地として利用したい旨が知事から和歌山大学長に依頼された。その後、同63年3月に和歌山大学教育学部跡地(和歌山市吹上1丁目)に近代美術館と博物館を建設することが決定され、建築計画に係る基本的事項についての指導・助言を得るため新美術館建設懇談会(委員17人)が設置され、4月には、県教育庁内に文化施設整備室が設置された。新美術館建設懇談会は、同年6月と8月に開かれた。そこでは新美術館の基本的性格・建物・収集方針・展覧会開催方針等が広く論じられた。その懇談の内容を踏まえ、9月には、新美術館に係る基本構想を策定するため、新美術館建設検討委員会(委員12人)が設置され、翌平成元(1989)年2月までに3回の会議を重ねた。他府県施設の調査結果も反映させながら、同委員会は4月に「和歌山県立新美術館の建設基本構想について」を答申した。
また、同月には和歌山県美術品取得基金条例が制定されるとともに、8月には近代美術館の美術作品収集基本方針及び開館展等の開催に関する事項を検討・協議するために新美術館専門会議を設置し、9月の同会議において新美術館の美術作品収集方針が承認されるなど、新美術館の開館に向けて着々と準備が進められていった。近代美術館が開館した昭和45~同62年まで、学芸員は2人であったが、翌63年~平成6年にかけて5人が増員された。
和歌山県美術品取得基金と策定された新しい美術館の美術作品収集方針によって、コレクションには飛躍的に厚みが増した。平成元年からは海外の作家も収集の対象とし、日本画・洋画・彫塑・工芸・写真など広範な領域の作品収蔵に努めた。マーク・ロスコの《赤の上の黄褐色と黒》やフランク・ステラの《ラッカⅢ》、ジョージ・シーガルの《レンガの壁沿いに歩く男》などのほか、版画についてはパブロ・ピカソの《貧しき食事》《ミノトーロマシー》《泣く女》をはじめ、ルドン、ムンク、クレー、カンディンスキーなど、作品1,343点が27億4,664万円の基金で取得されたのである。昭和45年の近代美術館の開館当時83点であった所蔵品は、新しい美術館に移転する前の平成6年3月末には5,839点に増加した。うち購入は3,232点、寄贈は2,607点である。この寄贈作品の中には所蔵家や美術家、その遺族から寄贈を受けた作品も数多く含まれている。とりわけ玉井一郎コレクションは、昭和55年、同58年、平成2年、同6年の4次にわたって寄贈を受けたもので、佐伯祐三の洋画13点、素描1点を軸に、ジャコモ・マンズー、エミリオ・グレコなど計277点からなる。
新しい近代美術館・県立博物館の建物は、平成3年10月に施設着工式が行われ、同6年3月に竣工した。建物の正面には巨大な灯籠が建ち並び、特徴的なひさし庇を数多く設けるなど、近代的な中にも日本の伝統を感じさせる設計である。池や滝が配されている広々とした敷地には熊野古道をイメージした散策路がめぐらされ、館を訪れる人々がゆったりとくつろぎ、楽しんでもらえるような場となった。また池の中には、天然記念物である根上がり松を背景にした野外ステージを設けて、三年坂をへだてた和歌山城との歴史のつながり、熊野をイメージした自然とのつながりを念頭に置いた「共生の思想」が反映された施設となった。
建築に関わる経費は、用地費用54億円を含めて近代美術館134億円、県立博物館58億円で、両館の敷地面積は23,356.78平方メートル、地上2階、地下1階の近代美術館の建築面積は4,500.62平方メートル、延床面積は11,837.90平方メートルであった。基本設計の段階から、他府県の美術館の詳細な調査を反映させ、また教育委員会と委託業者との間で綿密な検討を続けた結果、展示部門やサービス部門のみならず、収蔵部門や調査部門・管理部門という、いわゆるバックヤードについても充実しているのが大きな特長である。収蔵部門は、全国的にも高いレベルの温度湿度管理を行える環境をもち、作品や資料の整理、撮影、修復、保管等の基幹的事業を行うための充分なスペースが確保された。
充実した美術館活動に向けて
平成6(1994)年4月に近代美術館の所蔵品等は移転され、新近代美術館が同年7月8日に開館した。新しい施設や予算、学芸課を設置した新組織は、それまでの蓄積を基礎とした活動を可能にし、ミュージアムとしての活動に専念することとなった。展示室は1階に1,000平方メートルの展示室Αと500平方メートルの展示室Βを、2階には1,000平方メートルの展示室Cを設置したが、特定の展示室に「常設展示室」という名称を与えなかったのは、コレクション展にしても、他所から作品を借用する特別展にしても、3室を自由に組み合わせた構成ができるように、という考え方からである。さらに2階の展示室Cに隣接する各種の視聴覚機材を整えたホールも、映像作品等との一体的な展示を行う可能性を考慮して、両者をつなぐ通路が設けられた。
このような展示室の自由な組合せと蓄積された豊富なコレクション及び資料は、開館後の展覧会構成にさまざまな発展の可能性を与えた。調査研究に基づきながら、さまざまなテーマと切り口でコレクションを見せる工夫は、年に3~4回程度、主に1階で開催されるコレクション展以外に対しても行われた。年に3回程度、主に2階展示室で開催される小企画展または企画展とよばれる展覧会では、種々の解説リーフレットが作成され、その都度新たな展示方法が模索された。また、同13年からはコレクションによる全館展示も始められた。
特別企画展は、(1)海外美術の秀作の紹介、(2)本県ゆかりの作家の紹介、(3)日本近代美術の紹介、(4)同時代の美術という開催方針に沿って、年3、4回程度、主に2階展示室で開催されている。とりわけ(2)本県ゆかりの作家の紹介、(3)日本近代美術の紹介では、「大正のまなざし-若き保田龍門とその時代-」展(平成6年)、「田中恭吉展」(平成12年)、「『生活』を『芸術』として 西村伊作の世界」展(平成14年)、「森鴎外と美術」展(平成18年)など、綿密な調査研究にもとづいた展覧会構成と図録で、高い評価を得た自主企画展も多い。また、(4)同時代の美術に関しては、ユニークな視点で現代美術家を取り上げる自主企画展をほぼ毎年開催している。
美術作品・資料の保存事業については、平成12年にIPM(総合的文化財虫菌害管理)の手法を導入し、虫菌害と保存環境の調査及び必要最小限のガス燻蒸の組み合せによる最新の保存処置を行っている。美術作品の修復作業も、優先順位を考慮しながら、継続的に行っている。
教育普及活動については、展覧会にあわせたミュージアム・トークの開催や年4回のニュースの発行の他、講演会やワークショップ、野外ステージ等での音楽会などを開催している。また学校を中心に諸々の教育活動と連携し、団体での来館時に展示解説などを行っている。同14年4月以降、高校生以下の入館料が無料化されたことも契機となり、児童生徒を中心とした教育普及活動にはいっそうの充実が求められるようになり、同19年4月には、新たに教育普及課も設置された。
近代美術館では、新美術館開館後に館の支援団体として新発足した近代美術館友の会をはじめ、同12年から図書資料の整理活動を行っている図書ボランティアや同14年から展示会に関連した共催事業行っているNPO和歌山芸術文化支援協会など様々な支援団体があり、こうした団体の協力を得ながら、本県における美術文化向上の取組を推進している。
(以上は、『和歌山県教育史 第二巻 通史篇II』(平成22年3月31日 和歌山県教育委員会発行)445頁~447頁、686頁~693頁からの引用です。漢数字を算用数字に変更したりするなど一部修正を行っています。)