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わが国の近代美術館事情3

(3)「近代美術館」と展覧会、その名称

「美術館とは、まず展覧会を開催するところである」と、あらためて問いかける必要もないだろう。そしてわが国で「近代美術館」は、コレクション展示を筆頭に掲げる場として機能するのではなく、まずは次から次へと開催される「企画展」によって運営がすすめられてきた一面がある。わが国最初の近代美術館である神奈川県立近代美術館(鎌倉)、そして国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)がそうであった。

こうした「企画展至上主義」ともいうべき状況にならざるを得なかったのは、神奈川そして国立近美両館がともに、開館当初、展示室を埋めるだけの質量ともにそろったコレクションがなかったからにほかならない。その後、たとえば1970(昭和45)年に開館した兵庫県立近代美術館、そして和歌山県立近代美術館にしても、ともにコレクションを公開する常設展示室をもたない中での出発であった。

とはいえ、「展覧会」というものを開催し続けることは、実は、大正から昭和のはじめにかけて、欧米のデパートメント・ストアーの営業形態を範に、呉服店から衣替えした三越や高島屋、そして大丸やそごうなどの百貨店で行われていた。その際、展覧会の企画を担当していたのが、当時、発行部数を伸ばしはじめていた新聞社だった。

大量消費の象徴、そして大衆の娯楽の場として、百貨店はわが国の文化の一翼を担っていた。豪華な建築の最上階には催し物会場が設営され、そこで展覧会が開かれていく。特に、関西の阪神間には美術品コレクターが集中し、「泰西名画展」という名で開かれていた海外美術展であっても、そこに出品されていたのは、すべてこれらコレクターが所蔵する作品であった。朝日新聞や毎日新聞はともに大阪発であり、とりわけ朝日新聞社は、展覧会の開催も重要な「文化事業」のひとつと位置づけていた。そしてここに、「新聞社主催・百貨店会場」という、わが国独自の展覧会の開催形態が生まれていった。

現代でも継続されているこのような新聞社主導による展覧会の開催状況にあって、「近代美術館」として誕生した神奈川県や国立近代美術館でも、その草創期には、美術館独自の企画による展覧会が開催されていった。それゆえに、近代美術館が展覧会を開催し続けていくことが、重要な事業の柱であった。批判も承知の上で指摘したいのだが、わが国では、現代にあっても、たとえば欧米のようなコレクション展示、すなわち常設展示を中心に美術館を運営していくことは難しいと、私は思っている。

いうまでもなく、コレクションの形成によって、個々の美術館が性格づけられていく。そしてわが国では、美術館も図書館と同じく社会教育施設として位置づけられ、どの図書館にも必ず、その図書館が立地する「郷土」のコーナーがあるように、美術館も博物館同様、その「郷土」の美術や文化の歴史を紹介する場となるべきはずである。

しかしながら、そうしたコーナーを開設しつつも、いわゆる「企画展」あるいは「特別展」などの開催を積極的にすすめ、「展覧会」によって新たな「美術史」を形成していくことこそ、「近代美術館」に課せられた使命だという思いがある。さらに「近代美術館」という名のもとに、展覧会のみならず、先進的な活動を維持継続していくことも課せられる。

近年、兵庫県や富山県などの例にも見られるように、開館当初は冠していた「近代」の名称をはずす館が現れてきている。これらの館のそれぞれの「事情」、そして意図は知り得ないが、それでも私は「近代美術館」という名称にこだわりたい。たとえば、15年間勤務し、学芸員のイロハを叩き込まれた兵庫県立近代美術館が、「近代」の名称をはずした時は衝撃だった。もう「近美」ではなくなったのかと、信じられない思いがしたのも事実だった。

和歌山県立近代美術館では、現在そうした動きはない。和歌山城と絶妙に呼応する、黒川「紀州」とも呼びたくなる黒川紀章による設計の建築も、空気調和機器や照明などの設備関係をはじめ、建築全体に新たな手を加えなければならない時期を迎えている。開館から23年も経てば、当然のことである。そして今後は、さらに厳しい局面を迎えている展覧会予算、さらに購入予算など、活動の根幹をなす様々の問題を、どう克服していくかというさらなる試練も待ち受ける。

だが、全国でも稀な県立博物館と隣接する立地環境、そして幸い、学芸職員の研究職としての処遇改善も行われた。こうした事柄を踏まえ、「近代美術館」として、将来にわたっていかなる活動が可能になるかを、さらに探っていきたい。

(2017年9月1日)

 

 

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