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わが国の近代美術館事情38

わが国の近代美術館事情38

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日―その35

 

この拙文を書きはじめる前に、『黒川紀章の作品』(1972年、美術出版社)の付録で一柳彗・作になる《MUSIC FOR LIVING SPACE》のEP盤レコードを聴いた。これはグレゴリア聖歌をBGMに、黒川自身の声がコンピューターによって変換され(ここでは最初に「クロカワ・ノリアキ」と名乗る)、「カプセル宣言」の第1条から第6条が語られたものだ。この「宣言」は、同じく「くろかわ・のりあき」と奥付に記載されている中公新書の『ホモ・モーべンス』(1969年)に、その第8条までの全文が掲載されている。レコードのレーベルには、「協力・京都大学電子工学部」とあり、B面には何も録音されてはいない。

この一柳の「曲」は、「日本の電子音楽 Vol.5」《ミュージック・フォー・ティンゲリー》(2006年)のCDにも、レコードの和訳《生活空間のための音楽》のタイトルで収録され、YouTubeで聴くこともできる。「宣言」の第1条は、「カプセルとは、サイボーグ・アーキテクチュアである。人間と機械と空間が、対立関係をこえて新しい有機体をつくる」という、刺激的な文言からはじまっている。この「宣言」をモチーフにした一柳作品の発表は1969年であり、まずその先駆性に驚くだろう。

そして、この《ミュージック・フォー・ティンゲリー》の一柳自身が書いたライナーノートには、「生活のための音楽」について、「1970年の大阪万国博でお祭り広場に建てられた太陽の塔は、内部に3層の構造を持っていた。過去を今エージする地下、現在を投影する地上、そして未来を展望する空中である。私は川添登プロデューサーと黛敏朗氏から、空中部分の音楽の作曲を依頼された。そこでその音楽の一部に、他のパビリオンでもいっしょに仕事をし、親交のあった建築家黒川紀章の建築論を、肉声ではなくコンピューターに喋らせる演出を行ったのがこの“Music for Living Space”である。1970年当時、これは最新の技術であった為、完成までにかなりの時間を要したのを記憶している」とある。しかもこのCDの他の2曲、《ミュージック・フォー・ティンゲリー》と《アビアランス》も、まさに音楽の「前衛」性に満ち溢れている。驚いたのは、このライナーノートに「参考文献」として、川崎弘二著『日本の電子音楽』(愛育社、2006年)が挙げられていることだ。川崎氏の名は、前回ミティラー美術館長の長谷川時夫氏のことについて触れた際、紹介させていただいていただけに、ここにも思いもかけない繋がりを感じる。

ところでコンピューターを駆使したテクノポップは、ロックの殿堂入りも果たしたドイツのグループ・クラフトヴェルク(クラフトワーク)などが知られるが、彼らのアルバム《人間機械》の発表が1978年。翌年には、日本でYMOが《ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー》をリリースする。「メトロポリス」そして「人間と機械」に、「空間」を加えた黒川紀章の構想と響きあう感覚が、一柳慧よりもほぼ10年遅れてポップ・ミュージックの世界にも波及し、ムーヴメントを形成していく。それはまた、カプセルに「情報処理装置」として、今は懐かしいFM付きステレオアンプとともに、オープンリールのテープデッキが、オプションとして組み込まれていることにも連なる。おそらく黒川は、FMから流れる音楽をテープに録音し、それを生活の中で楽しむことを構想していたに違いない。

実はこのことを紹介するのも、先日、黒川紀章の「カプセル中銀カプセルタワービル 保存・再生プロジェクト」代表の前田達之氏が来館されたからである。すでに当館のホームページでも紹介しているように、中銀カプセルの《A908》が、当館正面に搬入設置され、その状況を確かめに来られたのだった。同じくかつてのカプセルの住人であり、このプロジェクトにもかかわられているAタワー4階のマサ・ヨシカワ氏、そしてBタワー11階のコスプレ声ちゃんも、わざわざ東京から来られ、カプセルについての話で盛り上がった。

昨年、草思社から中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト編による『中銀カプセルタワービル 最後の記録』(2022年3月)と、『中銀カプセルスタイル 20人の物語で見る誰も知らないカプセルタワー』(2020年12月)が出版され、先のお二人のカプセル住居も、後者の書籍に掲載されている。コスプレ声ちゃんは、ターンテーブルを回して、D Jの練習風景をSNSでカプセルから配信してもいたようだ。

ところで解体されたカプセルが、現在美術館で披露されているのは、国内では和歌山県立近代美術館だけである。上空からドローンによって撮影された設置の現場を見れば、黒川建築の代表作でもある当館正面にふさわしいのは当然のことだろう。さらにこのカプセルの原型ともいうべき事例は、先の一柳慧のライナーノートにも書かれていた1970年の大阪万博で発表されていた。前年発表された「カプセル宣言」を実践すべく、パビリオンの建築にもそれは生かされた。

当時、高校生であった私も、この万博会場は二度訪れた。のちに国立国際美術館となる万国博美術館に足を運び、ムンクの《思春期》(1894/95年、ノルウェー国立美術館)は忘れられない思い出になっている。アメリカ館などは人気で、長蛇の列を前に並ぶのをあきらめたが、西ドイツ館には入ることができた。円形のパビリオンに、網の目になった金属製の床に座布団が敷かれ、半ば空中にいるような状態で、モーグ・シンセサイザーによる演奏が行われていたことははっきりと覚えている。当時それがシュトックハウゼンによるものだとは知るはずもなかったが、ともかくはじめて耳にする「曲」に茫然と聴き入り、これが未来の音楽なのかと感じたことも懐かしい。

万博で黒川紀章は、タカラ・ビューティリオンや東芝IHI館のパビリオンを手がけていた。これらのパビリオンには入れたような記憶があり、21世紀の未来社会を体験しているようだった。さらに今回、『ホモ・モーベンス』の「あとがき」を読んで知ったのは、この「ホモ・モーベンス」という言葉は、黒川の独創ではなく、多田道太郎のいう「動民をとくに『ホモ・モーベンス』と呼んで未来的な意味を与えようと提案し」、「多田さんとの合作といってもいい」と書かれていることだった。

当館は、県立近代美術館として、万国博覧会が開かれた1970年の11月に開館した。そして1994年7月に、現在の新館が、黒川紀章の設計で実現している。さらにその30年後、黒川のカプセルが当館の正面にやってきたことに、持続する縁というものを強く感じる。この間ほぼ30年、和歌山県立近代美術館は、黒川設計の美術館で、展覧会ほかさまざまの活動を行ってきた。

さらにこれも、前回から続く繋がりを思うのだが、前述のマサさんからいただいたDVDの映像作品を見て、また驚いてしまった。それは、マサさんが制作した日系アメリカ移民の物語《ミリキタニの猫》(2006年)だったからだ。主人公ミリキタニ氏は、ロサンゼルスからニューヨークに移り住んだ日系2世、「猫」の絵を描き続け収容所体験もある。そして今月30日から、当館で「トランスボーダー 和歌山とアメリカをめぐる移民と美術」展がはじまる。この展覧会については、次回あらためて記してみたいが、同時に1週間遅れて「原勝四郎展 南海の光を描く」も開催される。この展覧会も、知られざる画家の全容を、田辺市立美術館との共同企画で紹介する半世紀ぶりの大回顧展である。

今秋は、ぜひともこのふたつの展覧会、そして美術館正面に設置されたカプセルも覗いてみてほしい。カプセルで暮らしていた人が、日系移民2世の映画の制作にかかわっていたことにも思いをめぐらせて。

(山野英嗣)

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