トップページ >館長からのメッセージ >わが国の近代美術館事情39

わが国の近代美術館事情39

わが国の近代美術館事情39

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日―その36

 

前回、美術館正面に設置された黒川紀章の「カプセル」について触れたが、そのカプセルで実際に暮らしていたひとりの方が、日系移民2世の映画の制作にかかわっていたと知って驚いた。ミリキタニという名の主人公は、カリフォルニア州トゥールレイク収容所で絵を教え、ニューヨークに移ってからは、日本人釣りクラブにも所属していたジャクソン・ポロックとも交流し、日本食が大好物だったポロックに寿司や天ぷらを振舞っていたという。

そして、あらためて「カプセル」についても再評価の機運が高まってきているが、現在当館では、「トランスボーダー 和歌山とアメリカをめぐる移民と美術」という、これも注目の展覧会を開催している(11月30日まで)。この「移民」や紛争についても、歴史上のみならず、先に紹介した映画《ミリキタニの猫》でも問いかけられているように、現代社会でもなお、避けて通れぬ問題となっている。

 

もう30年近くも前になるが、かつて『芸術新潮』誌(1995年10月号)で、「アメリカン・ドリームに賭けた日本人画家たち」と題した特集が組まれた。「野茂の先駆者は美術界にもいた!」と掲げられたサブタイトルにも時代を感じるが、実はこの特集は、同年から翌年にかけて、東京都庭園美術館ほか3会場を巡回した「アメリカに生きた日系人画家たち 希望と苦悩の半世紀1896–1945」展を取材し、まとめられたものであった。

太平洋戦争以前から、多くの移民たちが移り住んだロザンゼルスのターミナル・アイランドでは、日本のひとつの町がそっくり移転したような状況下で、漁業などに従事し、島の中では、日本とほとんど変わりのない暮らしが営まれていた。今回、当館の展覧会に特別協力いただいたロザンゼルスの全米日系人博物館長兼CEOのアン・バロウズ氏から、《古里:失われた村、ターミナル島》と題したDVDをいただいた。それは、このターミナル・アイランドで3000人以上はいたという日系人の生活を、様々の証言をもとに制作されていた(11月18日には、このビデオ上映会も開催した)。興味深く思ったのは、たとえば「私たち」を意味する「ミーら」や、「あなたたち」を指す「ユーら」といった独特の「和製英語」も生み出されていたことだった。

しかし、真珠湾攻撃の日から、スパイの疑いをかけられて移民たちの生活は一転する。すべての人たちが、島から強制退去させられ、強制収容所に送られたのである。先に紹介した「アメリカに生きた日系人画家たち」展には、ヘンリー杉本や石垣栄太郎とともに、同じく和歌山県出身の上山鳥城男についても、《避難者》(1942年)と題された作品と、《嵐》(1943年)の木炭画が出品されていた。『芸術新潮』誌にも、図録と同じく「全米日系人博物館蔵、カヨコ・ツカダ寄贈」とのキャプションが入れられた《避難者》の図版が掲載されたが、これらは上山鳥城男の作品が知られるはじめての貴重な機会だった。そしてほぼ30年ぶりに、今回の「トランスボーダー」展で同作品は、《疎開者》の名で、ふたたび出品された。本展では、上山作品は油彩画の大作《日本着の夫人(着物姿の上山夫人》(1929年)をはじめ、全米日系人博物館ほか個人蔵も含めて15点の作品が出品される好機となった。

この《疎開者》は、制作年や人物背後の建物から、収容所で描かれていたことがわかる。それにしても、何という穏やかな日常の一コマだろう。来日された作者・上山鳥城男のご遺族は、この展覧会を機に、日本の親族の方々とあらためて交流を深められた。「やっと伯父の家族に会えることとなり、上山家先祖代々のお墓参りと上山家の故郷で咲いていた彼岸花を見ましたことは一生忘れられない体験でした」と、帰国後いただいた手紙に書かれていた。アメリカでもようやく上山の展覧会が開催され、日本でもより紹介の機運が深まることが期待される。

上山鳥城男をはじめ、写真家の宮武東洋や、アメリカのいわば「明治洋画」の先駆者であり、生没年も確定され、兄が紀州藩士だったという加地為也や、明治期の日本人画家としてアメリカでもっとも成功したといわれる青木年雄など、なお「知られざる画家」たちを含んでいるのも、この「トランスボーダー」展の見どころである。展覧会の醍醐味は、何といっても知られざる作家・作品を発掘し、評価を問うことにある。今回、全米日系人博物館からは、先の「アメリカに生きた日系人画家たち 希望と苦悩の半世紀1896–1945」展以来2度目となる全面的な協力をいただき、より一層充実した内容となったことを感謝したい。

 

そして、「トランスボーダー」展とほぼ同時に開催している和歌山ゆかりの「洋画家・原勝四郎」もまた、今なお「知られざる洋画家」といって過言ではなく、その全容が半世紀ぶりに紹介される展覧会となった(12月3日まで開催)。この回顧展は、田辺市立美術館との共同企画である。これまで一人の作家の個展は、たとえば巡回展というかたちで、地方や各地の美術館などで開かれていた。しかし今回は、同じ作家の展覧会を、同じ会期で連動させて、ゆかりの県立・市立のふたつの美術館で開催するのは、展覧会史上はじめてのことではないだろうか。そしてひとりの作家の評価は、展覧会で実作を紹介する過程を経て固まっていく。

過日11月2日には、当館の初代学芸員であり、1972年に和歌山で最初に「原勝四郎展―その自己表現の軌跡」展を担当された、現在は福島県立美術館名誉館長の酒井哲朗氏に、今回それぞれの館で担当するふたりの学芸員が話をうかがうトークイベントを開催した。そこから感じたのは、日本の美術館の歴史であり、半世紀という時間の経緯である。酒井氏がその後には、宮城県美術館を開館から陣頭指揮してこられたことを知っている私にとっても、それまでまったく知られなかった作家の展覧会を組織し、作品を発掘してコレクションしていくその過程を担当された一学芸員の姿を追体験するようで、実に感慨深い思いがした。

当館で開催した展覧会の翌1973年には、大阪にあった梅田近代美術館が朝日新聞社と共催で、さらに秋には神奈川県立近代美術館でも「原勝四郎展」が開催された。また、この年の夏には、田辺市出身の経済学者で、熱心なコレクターでもある脇村義太郎氏によって「原勝四郎画集刊行会」が創設され、日動出版部から、当時の近代洋画家の画集の先駆といっても過言ではない本格的な画集も出版されていたことも忘れられない。

こうした経緯を背後に、戦後の1970年代の日本の高度成長期も重なって、原勝四郎の作品も注目されるようになっていったという。とりわけ油彩の小品には、見ていて飽きぬ不思議な魅力が凝縮されている。そして風景画であれば、大気にゆらめくようで動感あふれる画面にも引き込まれる。さらに人物像や、多くはバラが描かれた静物などにも、作者・原の個性が満ちている。

私は特に、原勝四郎が、東京でのちに音楽家として活躍する信時潔と交流があったことにも親近感を覚えた。それというのも信時は、現在の大阪府立市岡高校の第一期生として入学し、同学年には小出楢重がいたからである。そして小出研究の第一人者であった乾由明氏も指摘するように、小出は原に「絵を描き過ぎて駄目にしないようにと忠告したことがあった」(「原勝四郎と芸術」『原勝四郎画集』所収)という。

原の作品は、フォーヴィスムを超えて「抽象画」の領域に、もう一歩のところまできている。これらの風景画は、「抽象画の父」カンディンスキーが、初期の1908年頃からのミュンヘン近郊のムルナウの片田舎で描いた「抽象表現へといたる風景画連作」をも彷彿とする。しかし原は、あくまで郷里の「風景」表現に踏みとどまった。青山熊治や藤田嗣治、長谷川潔らとも交流し、彼らもまた、原の存在や作品を認めていたという。

 

「トランスボーダー」展、そして「原勝四郎展」と、ともに会期も残りわずかになってしまったが、高評価をいただいているこれらふたつの展覧会、加えて美術館正面に設置している黒川紀章の「カプセル」も、ぜひご覧いただきたい。

(山野英嗣)

ツイートボタン
いいねボタン