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わが国の近代美術館事情40

わが国の近代美術館事情40

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日―その37

 

新年を迎え、瞬く間に一か月が過ぎてしまったが、1月1日の夕刻、能登半島で起こった地震は身につまされる思いがした。自宅にいた私の地域は震度3だったが、携帯が鳴り響き、横揺れしていた時間も長く感じた。リビングの照明は大きく揺れ、シンクの器に溜めてあった水も波打っていた。元日にこのような災害に見舞われたことに加え、すぐつけたテレビでは、絶叫に近い女性アナウンサーの声が流れ、大津波警報が出ていたことにも驚いた。

実は、私は阪神・淡路大震災で被災し、その時の体験が今も鮮明に蘇る。決して風化などしてはいない。29年前の同じ1月、神戸市東灘区にあった自宅の玄関には、向かいの家が倒れ込み、その衝撃で建物の基礎が南北にずれ、倒壊寸前となった。向かいの家のご主人は、家屋の下敷きで亡くなっていた。まさにその玄関上の2階で寝ていた私は、地震の瞬間、経験したこともない衝撃で、いったい何が起こったのかわからなかった。倒壊していれば、死んでいたかもしれない。不幸中の幸いか、隣にあった義母宅は無事で、すぐに駆け込んだ。そしてこの家で、しばらくは近隣の家族を含めた共同生活もはじまった。

 

当時住んでいた神戸市で、こんな大災害が起ころうとはまさに想定外で、東京で大地震が起こり、神戸も巻き込まれて日本は完全に沈没したと思い込んでいた。一瞬にして、すべてがなくなる事態に巻き込まれることも信じられなかった。情報も得られず、被害がどのような程度なのかまったくわからないまま、夜が明けていった。

明るくなって外に出ると、周囲の家屋がほとんど倒壊しているのに、わが目を疑った。さらに不気味なのはガスの臭いだった。まだ地鳴りと余震が襲う中、恐る恐るメガネを取りに行ったが、あらためて自宅1階の床に、家具や食器などのガラスが散乱する光景を目の当たりにして、余程の緊張感だったのか、逃げ出す時に、よく素足で何の傷も負わなかったのが不思議でならなかった。

自宅周辺に自衛隊が救助に来てくれたのは、地震から3日目のことだった。自衛隊派遣の初動が遅れたというより、住宅周辺の狭い道が、倒壊家屋や瓦礫でふさがれていた。もしも火災が発生していたらどうなっていたのかと思うだけで、背筋が寒くなる。

東日本大震災の時は、ちょうど勤務していた美術館で、展覧会の開会式があった時だった。何か遠方で大きな災害があったことを耳にした私は、すぐに事務室にあったテレビをつけた。津波の光景が映し出されているのを見て、開会式場にも向かわず、画面に釘づけになっていた。私の祖母も関東大震災を経験していて、たまに地震で小さく揺れることがあっても、「本当の地震はこんなものではない」と、いつも言い聞かされていたことを思い出す。そのことをまさか自分も体験し、広範囲の日本でも起こるとは、思ってもみないことだった。

そして、あらためて問いかけておきたいのは、地震直後から様々の試練が待ち受けることである。家族や親族、友人たちを亡くし、家を失った悲しみは言うに及ばず、同時に、自ら生活する地域周辺のコミュニティーと、自らかかわる仕事場や学校などとのはざまに、抜き差しならない事態が生じてくる。

私自身、美術館に2時間かけて徒歩で「通勤」できたのは4日目のことだった。自宅周辺では、3日目にようやく自衛隊によって遺体が運ばれ、毛布をかけられて寝巻きそのままの人の足はすでに白かった。震災当日の夜、そしてこの日の朝まで、自宅周辺の倒壊した家屋では、多くの亡くなった人たちがそのままの状態だった。職場のことが気になりながらも、自らの環境を整えることに精一杯の3日間だった。美術館も大きく被災していたが、駆けつけることができた職員たちの手によって、展示室や収蔵庫など、美術作品の救出がはじまっていた。

 

近代都市の大規模災害は、関東大震災以来のことだった。ボランティアが被災者を支援し、炊き出しや倒壊家屋から家財道具を運び出すことなど、その活動も貴重だ。私も倒壊寸前の自宅から、ともかくも衣服や身の回りの品の一部などを、ボランティアの若い人たちの手を借りて義母宅に運んでもらった。

加えて、今あらためて思うのは、パンデミックに見舞われ、避難所やボランティア活動も、新たな段階を迎えていることである。避難所でさえ、時間が経過すると人間関係が変化し、集団生活の問題点も噴出してくる。そこに、感染症などの脅威や、阪神・淡路の時よりさらにすすんだ高齢化の状況が重なる。

また、当然のことながら、被災した時の時間帯でも被害は変わる。阪神・淡路で被災した美術館の1階ロビーには、粉々になったガラス片も多く、木製の書架に、そのガラス片が突き刺さっているのを見て、もしこれが開館中であったらと思うとぞっとした。

私も、後に職場が変わってマンション住まいとなり、管理組合で防火管理者のなり手を募っていた時、迷わず2日間の講習を受けて資格をとった。そしてちょうど、現在住んでいるマンションでも、市の消防署に依頼し、12月に防火訓練を実施したところだった。その際には、震災用の地下の備蓄倉庫も住人とともに確認し、多少なりとも住民の意識の高まりに貢献したかもしれない。

 

美術館や博物館などに勤務する者にとっては、こうした災害対策や支援に加えて、当然のことながら、「文化財レスキュー」(この言葉は、阪神淡路大震災で生まれた)といかにかかわっていくかという問題が横たわる。

和歌山県でも、想定される南海トラフ大地震に備えなければならない。「和歌山県博物館施設等災害対策連絡協議会」では、県立博物館や県立近代美術館など、県内の博物館・図書館施設、県や市町村教育委員会も含め、現在約80の機関が会員となっている。『先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝える』の小冊子を発行し、2021年3月に和歌山県教育委員会が発刊した58頁にわたる「和歌山県文化財保存活用大綱」では、巻頭で、南海トラフ地震による「地震と津波による人的被害と社会インフラ等の甚大な損壊が想定されている」と警告する。また、作年11月には、教育委員会が「和歌山県文化財災害対応マニュアル」(A4版、35頁)を作成している。

全国美術館会議では、そのホームページに「全国美術館会議と災害対策」の項があり、阪神・淡路大震災を機に、「文化財レスキュー事業が初めて組織的なかたちで実行された」とある。そして「東日本大震災以降も、各地で地震災害や風水害等が頻発する」と、注意を喚起する。

しかし、こうした組織の活動がいかに有効性をもつかは、先にも記したように、さまざまの「不測の事態」を常に意識しておくしかない。自らがいつどこで被災するかもしれないという危機感は、現在の日本では、誰もが共有すべきだろう。

(山野英嗣)

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