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わが国の近代美術館事情5

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日—その2

 

先日、美術館連絡協議会の総会で、私は兵庫県立近代美術館のかつての同僚・木下直之氏と隣り合わせた。氏は、大学勤務の傍ら、4月から静岡県立美術館長に就任され、待望の氏の美術館への復帰である。そして、少しだけ「近代美術館」の話題になり、兵庫県立近代美術館で「近代」の名称を取ったのは誰だろう、ということになり、多分それは、今は亡き、われわれの先輩学芸員で、当時館長補佐であった中島徳博氏ではないかと納得した。その時私は、近代美術館から現在の兵庫県立美術館の開設準備室が、県庁内の教育委員会に設けられていた時、新しい美術館の愛称であった「芸術の館」を縮めて、「ヤカタでは」と言われていたらしいことも思い出していた。さらに、木下氏とは、このままだと今人気の近畿大学の付属美術館、すなわち「近大美術館」になりそうだという氏の実話体験も思い出し、笑い話になった。だが、これは決して笑い話しではすまされない内実を含んでいる。

閑話休題。それというのも前回、和歌山県立近代美術館のコレクション作家について触れ、「わが国の『抽象』表現を代表する作家たちが、和歌山に結集していることだ。これは『近代美術館』それ自体の活動とも関わる重要な事柄であり」と記していたこととも結びつく、抜き差しならない問題を含んでいるからだ。

 

「近代美術館」といえば、誰しもが、1929年に世界ではじめて創設されたニューヨーク近代美術館を思い浮かべるだろう。そしてわが国でも、神奈川県立近代美術館、国立近代美術館など、創設期の「近代美術館」は、明確にこのニュ−ヨーク近代美術館の活動をモデルとしていた。

そこで注目すべきは、このニューヨーク近代美術館が開催していった展覧会、そしてコレクションが、まさに近代美術史そのものを形成する原動力となり、規範となっていたことである。しかも「近代美術館」は、過去の表現を乗り越え、そこに「新たな表現価値」を提起するという、いわば美術館の活動自体が「前衛」として機能し、それを積極的に推進する紛れもない経緯があることだ。さらに言えば、そうした営為を、具体的に展覧会として組織、明示し、市民権を得るまでに評価を積み重ねて呈示していったことである。展覧会によって新たな「美術史を編み出す」こと、それが同時代性をも包み込む「近代美術館」に課された宿命だといって過言ではない。

 

ここであらためて、和歌山県立近代美術館に目を向ければ、ここに見逃せないある事柄が浮上してくる。それがわが国の「近代美術館事情」にほかならない。

これまでにもこの「メッセージ」で記してきたが、近年、公立の「近代美術館」先駆館で、「近代」の名称をはずす動きが出てきている。現在の兵庫県立美術館、そして今夏再出発した富山県立美術館も、開館当初は「近代美術館」と名乗っていた。休館中の滋賀県立近代美術館も、リニューアル時には「近代」の名称をどうするのか検討中だと聞く。また、わが国最初の近代美術館であり、鎌倉に位置して、その歩みを刻んできた神奈川県立近代美術館「鎌倉館」も、昨年3月末をもって閉館した。

こうした動向を見るにつけ、それでは今日、わが国で「近代美術館」には、どのような位置づけが与えられるのか、という問題があらためてクローズアップされてくるように思えてならない。和歌山県は、最初「県立美術館」として、東京オリンピック開催の前年(1963年)に開館し、大阪万博開催の1970年に「近代美術館」に生まれ変わった、わが国で唯一の美術館である。

私事にわたるが、兵庫県立近代美術館に採用され、その後、京都国立近代美術館に異動し、現在、和歌山県立近代美術館に勤務することになって、一層「近代美術館」についての思いを強くする。加えて、これまで勤務してきた神戸を基盤とする阪神間モダニズム、そして京都の「近代美術」を巡る中で、やはり私は、「近代美術とは前衛」であるという思いも強い。

また、日本画の領域に目を向ければ、ここに集まった日本画家たちは、渡欧して、当時の最先端であったフランスの後期印象派の作品から影響を受け、帰国後、それを自らの表現に取り込もうとしていた。加えて、太平洋戦争戦時期に結成された日本画の前衛集団「歴程美術協会」では、ドイツのバウハウスで、カンディンスキーが説いた「緊張」を意味する「シュパンヌンク」というタイトルの日本画作品まで制作されていて驚く。この「シュパンヌンク」は、戦前の美術教育界で一世を風靡した「構成教育」のキーワードでもあった。

 

和歌山県立近代美術館の新館が開館した翌年(1995年)の展覧会のラインアップをふりかえれば、「恩地孝四郎」展にはじまり、「村井正誠展」や「保田春彦展」など、それがすなわち和歌山の「近代美術」であることを、ことさら意識した陣容で再出発している。

私たちの日常生活を見渡せば、ほぼ10年周期で新たなテクノロジーを駆使した機器が登場し、近年その傾向は著しい。それは、本来は「前衛」である「新たな表現」が、何の違和感もなく吸収されてしまうこととも共鳴する。「草間彌生展」の来館者数にも驚くだろう。そして今日、「近代美術」すなわち「モダン・アート」に対する批評とともに、美術館が立地する地域の美術状況についても問いかける、実に重い実践の場として、「近代美術館」は位置するはずだ。しかし、それを実現するのは簡単なことではない。次回は、行政的な諸問題も含めて、今、わが国特有の美術館が直面する現状について触れてみたい。

(2017年11月21日)

 

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