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わが国の近代美術館事情14

わが国の近代美術館事情14

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日—その11

 

9月8日(土)から開催していた「和歌山—日本 和歌山を見つめ、日本の美術、そして近代美術館を見つめる」展も閉幕した。昨年4月に当館館長に着任してはじめて企画した展覧会だった。会期中には台風で休館も余儀なくされ、予定していたシンポジウムも順延しての開催となるなど、来館者数もなかなか伸びなかったのは残念だ。そして、この展覧会については、当館の次回発行の美術館ニュース『NEWS No.97』に、あらためて拙文を寄せているので、ご一読いただければと思う。

さて今回は、前回に引き続いて、昨年2017年度に当館で開催した展覧会から、ふたつの企画展を紹介してみたい。

ひとつは「アメリカへ渡った二人 国吉康雄と石垣栄太郎」展(10月7日—12月24日)である。この展覧会は、限られた予算での開催ではあったが、特に公益財団法人福武財団と岡山県立美術館、そして太地町立石垣記念館の協力なくしては実現できなかった企画であり、関係諸機関にはあらためてお礼申し上げる。そして、企画協力として岡山大学大学院教育学研究科国吉康雄を中心とした美術鑑賞教育研究講座にも加わっていただいた。

国吉康雄については、福武コレクションとして代表作が多数収蔵されているのは周知のとおりだ。一方、石垣栄太郎については、当館も前身の県立美術館時代から、作品を購入し、夫人の石垣綾子氏も当館に多数の作品を寄贈された。私個人も、かつて勤務していた京都国立近代美術館の油彩画所蔵作品第1号が、石垣のデビュー作であり代表作となる《鞭打つ》(1925年、石垣綾子氏寄贈)だったことや、小さい頃、テレビの昼番組にしばしば出演され、大きな眼鏡が印象的な綾子夫人のことは鮮明に覚えていて懐かしい。

ところで、隣どうしのアパートにも住んでいた国吉と石垣だが、作風はまったく異なっている。渡米が太平洋戦争の時期とも重なり、「敵性外国人」として過ごさなければならない中、アメリカ市民権を申請しその獲得を目前に死去した国吉。そして、アメリカでの社会問題と格闘するように問題作を発表しながら、日米開戦のはざまに苦悩し、失速してしまった石垣。今回の展覧会では、かつて『LIFE』誌に掲載され、当館学芸員がアメリカに現存することを突き止めた石垣の《ハーレム裁判所のための壁画》(部分)(1938年)が初公開となり、昨年度、幸い当館に購入収蔵できたという成果もあった。

そしてもうひとつの展覧会が、今年2月10日から3月25日にかけて開催した「水彩画家・大下藤次郎展」で、これは森鴎外ゆかりの作品を収集対象とする島根県立石見美術館の協力を得て、「明治150年」の記念事業とも重なる企画であった。加えて、この展覧会のいわば交換展として、石見美術館で、当館の近・現代美術コレクションによる「モダン・アートに出会う5つの扉」と題する展覧会も開催された(2018年4月21日−6月17日)。

また、「国吉・石垣展」「大下展」両者とも、カタログは発行できなかったが、8頁からなる冊子を作成して、来館者に無料配布した。カラー版で、すべての出品作の収録はかなわなかったが、しかし、それぞれに担当学芸員の解説の質は高く、せめてこうした出版物だけでも出しておかなければと痛感する。

こうした館コレクションを巡回し企画展を開く試みは、予算も厳しい現状にあって、近年、他館でもしばしば行われている。その背景に、1970年代以降に建設された館施設の老朽化による改修工事のための休館という現実問題があり、その間の他館でのコレクションの有効活用という実情もある。国立館でも、豊かなコレクションの公開という主旨から、国立美術館巡回展を公立美術館で開催し、私も京都近美在職中には、京都に担当が回ってきた時には、むしろ公立館の経験者として、すべて積極的に関わってきた思いもある。

その一例で恐縮だが、現在は久留米市美術館となった前身の石橋財団石橋美術館で、急遽国立美術館巡回展を開催したことがある。予定していた国立他館が準備できないとして、開催館から探しはじめたが、そのとき、手を挙げていただいたのが石橋美術館だった(通常は巡回展の名の通り2会場だが、会期調整の都合上、1会場とした)。「国立美術館巡回展 名作と出会う―洋画・日本画・工芸・彫刻」と題し(会期は2006年11月3日−12月17日)、図録制作も、石橋美術館学芸員であった植野健造氏(現福岡大学教授)と私が分担執筆した。この展覧会では、国立美術館巡回展としてはじめての試みだったと思うが、国立館所蔵品だけではなく、石橋美術館が所蔵する代表作も加えて構成した。「京都の洋画、久留米の洋画」の章を冒頭に、戦後美術、工芸も加えた5章からなる総合展示も実現した。私は、当時の年報に「開催会場学芸員との共同作業はいうまでもなく、開催館の特色を生かした点でも非常に有益な場となり、新たな巡回展の方向性を切りひらいたと思われる」と記した。また、今後は国立美術館巡回展も、開催公立館と協働して、柔軟な対応による企画が実現できればと思う。

こうした美術館同士の協力姿勢は、人的交流も促し、先の和歌山と島根の場合でも、コレクションを知り尽くした当館の学芸員が島根に赴き、教育普及事業を行っている。しかしなお、公立館の現状は厳しく、たとえば作品購入を経験したことのない若い学芸員も多いと聞く。これなどは、美術館の将来にとって致命的な出来事であるだろう。次回はさらに、公立館での体験もふまえながら、美術館の活動について、私なりの思いを記してみたい。

(2018年10月27日)

 

 

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