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わが国の近代美術館事情19

わが国の近代美術館事情19

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日―その16

もう会期も終盤にさしかかっているが、以前「美術品 眠らせない」と題して、好評開催中の「ニューヨーク・アートシーン」展の記事が、『朝日新聞』(6月18日、夕刊)に掲載された(会期は、9月1日まで)。当館にとっても、この展覧会の来館者数は予想を超えるほど多く、あらためて時代は変わったと感じる。昨年、満を持して開催した「創立100周年記念 国画創作協会の全貌展」のほぼ3倍の来館者を集め、とりわけ現代美術作品と無垢に接するこどもたちの姿も印象的だった。

この展覧会の核を成すのが、改修工事のため休館中の滋賀県立近代美術館のコレクションである。「ニューヨークという一都市の出来事が世界の美術を変える、特殊な美術シーンだった」と、担当した当館の奥村一郎学芸員の言葉が、この新聞記事に掲載されているように、戦後1940年代半ばあたりから、ニューヨークが世界の美術界に台頭する。

そして現在、ニューヨークで生まれたこれらの美術作品は絶賛され、当館が所蔵するマーク・ロスコの《赤の上の黄褐色と黒》(1957年)も、よくぞ入手しておいたと言えるほど、実に貴重なコレクションとなっている。さらに「ニューヨーク・アートシーン」展では、当館の会場だけ、《赤の上の黄褐色と黒》に加え、滋賀県立近代美術館の《ナンバー28》(1962年)と大阪中之島美術館の《ボトル・グリーンと深い赤》(1958年)のロスコ作品3点が、あたかも現代におけるトリプティク祭壇画のように並ぶ機会となった。

しかし、戦後の抽象表現主義をはじめとしたアメリカ美術の「勝利」ともいうべきこのような評価は、戦前の「アーモリー・ショー」(1913年)や、1917年のアンデパンダン展でスキャンダルとなったマルセル・デュシャンの《泉》(1917/1964年)など、まさに「特殊な美術シーン」を経て、洗礼を受けてきたものである。「実作品」は失われてしまい、レプリカだけが残されているにしても、今では誰も《泉》の作品価値を疑う者はいないし、そのことこそがニューヨーク・ダダの「反芸術的行為」の象徴ともなっている。

そうした経緯を経て獲得されてきた「表現の自由」は、たとえば今日、誰にでも親しまれているフランス印象派の絵画が、市民権を得るまでに展覧会開催を重ねてたどってきた苦闘の歩みとも響き合う。美術に限らず、音楽や文学でも、過去の「表現」を乗り越えようとする。いわゆる「前衛」行為は、時に政治的な動向とかかわりながら展開する。ナチスが「頽廃芸術」とまで呼んだ作品群も、現代ではその評価がまったく逆転しているのは周知のとおりだ。その他、彫刻家エルンスト・バルラハやバウハウスなど、政治的弾圧によって失われかけた「表現」が復活し、美術史上欠かせない評価を得ている事例は枚挙にいとまがない。

その意味で、現在マスコミをにぎわしている「あいちトリエンナーレ 2019」の「表現の不自由展・その後」問題が、賛否両陣営から激しく議論されているのも、むしろ歴史的必然といえるだろう。ただ現代では、それこそ「自由」に、SNS炎上トラブルという事態を引き起こし、とんでもない方向に話がすすむこともある。しかし、これは何も芸術の「表現」だけにかわることではないが、このような賛否両論飛び交う「評価」の積み重ねのうちに、「表現」は鍛えられ、新たな「価値」を獲得して「美術史」が形成されていく。そうしたヴィヴィッドな活動実践の場として、たとえばニューヨーク近代美術館などが開く展覧会が位置し、展覧会によってモダン・アート史がつくられてきた事実がある。

さらに「展示」として、いわゆる博物館的枠組みの中で考えるなら、最近、広島平和記念資料館がリニューアル・オープンし、その新たな「展示」に対して、様々の意見が交わされたことがあげられる。私も、開館間もない小学生時代に、国語の教科書に同館のことが紹介されていたことから関心をもち、親に頼んで連れていってもらった思い出がある。しかし私は、途中で展示を直視できなくなり、気分が悪くなって座り込んでしまったのだった。それだけ展示資料が、強烈な「表現」物となって小さな私に迫っていたのだと、今になって実感する。今回のリニューアルでは、人形などの「つくりもの」は極力撤去され、個人から寄贈された遺品など、被爆の現実の悲惨さを物語る「実物」資料を中心に、展示が一新されたという。

この平和記念資料館は、歴史資料を展示するだけの博物館ではなく、「歴史」が発するメッセージとともに歩む宿命を背負っている。それゆえ同館は、「近代美術館」と同じく、「現代」(モダン)という時代を、あらためて意識させる場でもあるはずだ。この脈絡からふり返れば、かつて富山県立近代美術館で起こった「天皇肖像」問題。性格は異なるものの、先駆的なジャポニスム研究でも知られる故大島清次館長が企画し、図録執筆の責任問題にまで発展した栃木県立美術館での「北関東美術展」(おそらく60歳を過ぎた美術関係者たちしか知らないだろうが)なども、公立美術館の立ち位置と政治的な関わりを露にしていたと思う。まだ、駆け出しの学芸員だった私も、これらの出来事を知って、純粋な気持ちだけで美術の仕事に関わることができない難しさを教えられた。

「美術品 眠らせない」という意志を強くはたらかせ、「展示」という行為に、美術館としての矜持を示すことこそ、美術館活動の生命線でもあるだろう。

(2019年8月30日)

 

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