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館長のおススメ―3月の一品 織田一磨《本郷龍岡町》

織田一磨《本郷龍岡町》(『東京風景』のうち)
1917(大正6)年

篠つく雨にけぶる坂道。海鼠壁をめぐらせる長大な家屋は、大名屋敷の一部なのでしょうか。つと開く無骨な門口に人力車が二台、三台。武家の町江戸の山の手情趣が色濃く漂います。現在残らない「龍岡町」の名は、東京の人でも首をひねるかもしれませんが、関西の私たちには全く未知の、しかし何と魅力的な町名なのでしょう。

調べてみると、現在の文京区湯島4丁目の一部だそうで、ちょうど東京大学本郷キャンパスの裏手に当たります。作者が記した「凡例」には、「東京市街に残存する江戸時代の建物で画的なものは之れを描写した、本郷龍岡町の旧加賀家長家云々」とあり、消えなんとする加賀屋敷の面影を、石版の技の限りを尽くして後世に伝えようとした画家の、並々ならぬ意気込みがうかがえます。驟雨は風を帯びて往き交う人を打ち、遠近に円い華を咲かせる番傘。道がぬかるむのか、手前洋装の人物は前のめりになり、コートを着用して山高帽、コウモリ傘をさすそのいでたちからして、東京帝国大学へと出講を急ぐ教授連かも知れません。

東京生まれの織田一磨ですが、大阪にも深い縁故がありました。1894(明治27)年、12歳の時に一家で大阪に移住します。先に単身来阪し、石版画工として名を上げていた兄の明(さとし、画名は東禹)を頼ってのことであり、一磨も兄のもとで技術を学びました。一時期広島で石版画工の仕事に従事した期間を除いて、一磨は大阪に足かけ10年の歳月を過ごすこととなり、最後の1年余は大阪市の図案調製所に吏員として雇われました。

1903(明治36)年東京に戻り、川村清雄について洋画を、また小柴印刷所で石版術を研究。明治40年代はじめには「パンの会」に参加し、同会の一翼をなす画家グループが刊行する『方寸』の同人にもなりました。世紀末のデカダンスを東京に繰り広げた文藝運動と、小さな「個」を紡ぎ出す創作版画運動が生まれ出る渦中にあって、一磨はほとんどただひとりで石版画を藝術に高めてゆきます。しかし、その成就のためには再び3年にわたる大阪暮らしが必要でした。新聞社や化粧品会社で図案の仕事をしながら、石版画に近代の息吹を添える試行錯誤を水彩画制作の中で準備したのです。

1914(大正3)年、東京に戻った一磨は翌々年『東京風景』二十点に着手、1917(大正6)年に完結するとすぐさま『大阪風景』二十点に取りかかり、両シリーズが完結を見た1919(大正8)年が織田一磨石版画の、他の追随を許さぬ高みに到達した記念すべき年となりました。両シリーズで一磨は、「砂目」から「磨き」に及ぶ石版目立ての調整、単色と多色の使い分けなど、あらゆるヴァリエーションを試みています。磨きの単色で制作されたこの作品は、最もシンプルな石版技法を基本にしながら、絶妙なクレヨン使いに特殊な手法を組み合わせ、しっとりとした砂目調にも見紛う効果を上げています。針や小刀でクレヨンを掻き取る神経質な細線が、激しく降る冷たい雨を見事に表現し、路面に跳ねるしぶきすら感じさせます。

この作品は、3月30日まで開催しています「版画について考える」展でご覧いただけます。

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