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わが国の近代美術館事情9

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日—その6

 

和歌山県立近代美術館は、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催の年に開館50周年を迎える。1963(昭和38)年開館の和歌山県立美術館を前身に、1970(昭和45)年、和歌山県民文化会館内に県立近代美術館として再出発した当館だが、わが国の近代美術館の5館目に位置することは、これまでしばしば触れてきた。

ところで、公私立美術館の設置基盤は、いうまでもなく1951(昭和26)年の博物館法にある。日本国憲法が、戦後すぐの1946(昭和21)年に公布されると、翌年には教育基本法(2006年に改正)、さらに社会教育法が公布され(1949年)、その第九条には「図書館及び博物館は、社会教育のための機関とする」と明記し、それぞれ図書館法(1950年)、博物館法(1951)によって「必要な事項」が定められた。

しかしながら、美術館施設に的を絞れば、博物館法公布の1951年時点で、公立の近代美術館は、この年に開館した神奈川県立近代美術館1館だけであった。わが国の近代美術館の歴史を説いた隈元謙次郎の「日本における近代美術館設立運動史」では、高橋由一の構想した美術館、すなわち「螺旋展画閣」から書き起こしてはいるが、興味深いのは、大正期から昭和初期の動向で、東京府美術館(現・東京都美術館)の竣工記念として朝日新聞社が1927(昭和2)年に開催した「明治大正名作展覧会」を評価して(ここに、新聞社が展覧会を開催していることにも注目したい)、この「府美術館を近代美術館に切りかえ、新陳列館を建設することを提唱している」(「日本における近代美術館建設運動史(30)」)と述べていることだ。次の連載(同31)でも「東京に近代美術館を建設する運動とともに、昭和初年には地方諸都市に地方美術館を設けよという声がおこって来た」と記し、「それらの中で、近代美術館としてここに特筆すべきは、京都大礼記念美術館の建設である」と、1933(昭和8)年に開館した現・京都市美術館を「近代美術館」と位置づける。

しかし、隈元が指摘するようなこうした先駆例ともいうべき公立美術館の開館があるとはいえ、残念ながら、戦後1951年に公布された「博物館法」下では、文字通り「美術館とは何か」というような、美術館のよって来たる基盤そのものの意味が説かれることはなかったといわざるをえない。これらの美術館建設の動向に先立つ1940年代以前では、現在の国立博物館の前身館である東京、奈良、そして京都に設立された博物館以外には、先の東京府美術館(1926年)、大原美術館(1930年)、徳川美術館(1935年)、大阪市立美術館(1936年)、石川県立美術館(1945年)、茨城県立美術館(1947年)、高松美術館(1949年)などの公私立館が開館し、1950年代でも、別府市美術館(1950年)、市立神戸美術館、高岡市立美術館、そして神奈川県立美術館(以上1951年)、翌年の国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)やブリヂストン美術館、さらに愛知県文化会館美術館(現・愛知県美術館、1955年)や石橋美術館(1956年)、秋田市美術館(1958年)、国立西洋美術館(1959年)などの開設が記録される。

だが、こうしてふりかえって見ると、いわゆる博物館法下にある公立・私立館の開設数そのものがまだまだ少なかった。日本博物館会議(1928年)や全国美術館会議(1952年)などの組織もあったとはいえ、国立館とは異なって、公私立館は「社会教育施設」として定められ、設置自治体の行政に対する「美術館としての現場」の声を集約する場も機会もなく、それが「美術館、そして学芸員とは何か」といった本来の議論を遠ざけてしまう要因にもなっていた、と私は思う。

今日にいたってようやく、「博物館法」を見直そうという気運の高まりとともに、先の隈元氏による東京府美術館、そして京都市美術館の位置づけにならい、戦前における日本の美術館草創期にさえ、確かに根づいていた「近代美術館」としての意識も、今一度掘り起こしてみるべきではないだろうか。それがあらためて、「美術館と何か」「学芸員と何か」、さらに「展覧会とは何か」「コレクションとは何か」といった、美術館の本質にかかわるテーマについての議論を促すことにもつながるはずだ。

 

昨年の5月から、この「館長からのメッセージ」を担当して、今回で10回目となった。和歌山県立近代美術館長として、昨年4月に前任の熊田司館長を引き継ぎ、本当に早いもので1年が経過した。新たに迎える2018年度も、このコーナーでさらに「近代美術館事情」を続けて記してみたい。

(2018年3月30日)

 

 

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