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わが国の近代美術館事情33

わが国の近代美術館事情33

 

(4)「和歌山県立近代美術館」の昨日、明日―その30

 

前回の「メッセージ」にも記したように、昨秋、当館では、和歌山県ではじめて開かれた「紀の国わかやま文化祭2021」、並びに「和歌山県誕生150年」に連携して「和歌山の近現代美術の精華」展を2部構成で開催した(10月23日―12月19日)。第1部は、「観山、龍子から黒川紀章まで」といういかにも当館らしい構成と同時に、その前年開館50周年を迎えた和歌山県立近代美術館の歩みと特色も打ち出した。第2部では、和歌山ゆかりの写真家・島村逢紅の全容をはじめて紹介し、この展覧会は当館のみならず、日本の近代写真史をふりかえる上でも貴重な一石を投じたに違いない。

ところでこの「精華」展を開催して思ったのは、近年、このようなひとつの地域の「近現代」美術史を再考し、新たな作家・作品を発掘する展覧会が少なくなってしまったということだ。しかし「精華展」は、和歌山県という一地域に絞りながらも、それがすなわち和歌山ゆかりの作家・作品による「日本近現代名作展」というべき、「もうひとつの」美術史に連なる広がりを示し、その名にふさわしい展覧会となっていたと思う。

1963年に開館した前身の県立美術館時代から、当館は、積極的に地域に立脚した郷土作家の個展を開催してきた経緯がある。展覧会を開くためには、何より作家・作品を評価し、発掘して選び出すという調査・研究が欠かせない。1960年代というまだ県立や市立の公立美術館の設置も少ない時代にあって、和歌山県はいち早く美術館を建設し、その成果を積み上げてきた。

そして県立近代美術館となった1970年以降、この姿勢はさらに鮮明に、建畠大夢や野長瀬晩花、浜口陽三はじめ、開催した展覧会のほとんどがこれら和歌山ゆかりの「近現代」の郷土作家を紹介する展覧会で占められていた。加えて1983年にはじまった「関西の美術家シリーズ」では、和歌山にとどまらない関西の現代美術家も取り上げ、1980年代のいわゆる「ニュー・ウェイブ」を射程に、コレクションにもその成果を反映させてきた。

関西圏で近代美術といえば、まず京都の陶芸や染色などの工芸、そして日本画や洋画の領域にスポットライトがあたりがちだが、戦前の1920年から30年代にかけては、大阪・神戸を中心とする「阪神間モダニズム」という捉え方も定着し、ここに和歌山の作家が加わる。さらに「和歌山のモダニズム」という時代もまた見出せるだろう。

戦前の1931年には、大阪で早くも「ロボット洋画協会」という前衛集団が生まれ、ここに医者であった石丸一や、後に志摩観光ホテル社長となるかたわら、吉原精油社長の実業家・吉原治良とも交流する川口四郎吉がいた。彼は自ら抽象画を描き、戦後『抽象絵画の見方』(1971年)も著した。1933年に、大阪で活動していた「艸園会」や「ZIG ZAG」および彫刻団体の「クレイ」が統合され、大阪新美術家同盟というモダニズムを標榜する美術団体も生まれた。

1932年に設立されていた「クレイ」は、いったん大阪新美術家同盟に加わるが、戦後大阪市立美術館内の美術研究所でも指導した保田龍門を迎え、1936年には独立して「大阪彫塑会」が結成される。絵画や商業美術など、いわゆる平面表現だけではなく、彫刻をはじめとする立体表現の活性化は、和歌山の龍門から大阪にもたらされたといって過言ではない。

1924年には、小出楢重や鍋井克之らによって信濃橋洋画研究所が開かれていたが、同年10月1日に大阪市立工芸学校(現大阪市立工芸高等学校)が、竣工したばかりの本館校舎で授業を開始し、この日が創立記念日と制定された。ここに和歌山県出身で、大阪市に在住していた稗田一穂が工芸図案科に学び、戦後は、田辺中学在学中に大阪に転居した松谷武判も工芸高校に在籍していた。

「精華展」では、現在の和歌山県立桐蔭高等学校に学んだ山名文夫も取り上げたが、山名は1916年に、高校卒業後大阪に移り、佐伯祐三も通っていた赤松麟作の洋画研究所に通い、その後『苦楽』や『女性』を出版していたプラトン社でイラストレーションを手がけていく。後にこれら独創的なモダン・デザインが注目され、山名は1929年に東京の資生堂の意匠部員となり、資生堂のロゴマークや『花椿』の表紙絵をはじめ、都市文化を象徴するさらにモダンな独自のイメージをつくり出していった。

その資生堂の創業者である福原有信の三男として生まれ、後に2代目の社長となった福原信三が、経営の傍ら写真作品を発表する。この信三が主唱した「光と其諧調」に心惹かれたのが、和歌山で写真に目覚めた若き日の島村逢紅だった。逢紅は福原信三が会長を務めていた「日本写真会」に参加し、1939年に和歌山支部を創設した。すでに1912年に、逢紅は22歳で和歌山に写真家集団「木国写友会」を結成していたが、大阪の「浪華写真倶楽部」や「丹平写真倶楽部」に所属していた安井仲治も、神戸の写真家・淵上白陽とともにこの「木国写友会」の展覧会の審査員も務めた。写真界でも大阪・神戸・和歌山三都の、モダニズムの潮流が生み出されていった。

建築では、1928年に建てられた現存する島村邸洋館も貴重だが、大阪府建築士会会長を務めた渡辺節は、1936年に竣工した旧和歌山市庁舎を設計し、1961年竣工の旧和歌山大学松下会館(現在は放送大学が一部を使用)も、戦後作でありながら、渡辺流モダニズムの流儀が凝縮されている。

さらに時間軸を広げて、20世紀のモダン・アートを再考する展覧会が、2月5日から当館ではじまった(3月27日まで)「20世紀から おみやげ。―近現代美術のたのしみ」だ。20世紀という時間軸を取り上げ、まさにこの「近現代」で展開された美術の時代に、まったく新しいスタイルを標榜する「近代美術館」も誕生した。20世紀は、一言でいえば、前時代には思いもつかない表現を求めた「アートの時代」だと捉えられるだろう。

 本展では、「変わる風景と暮らし」「美術を学ぶしくみ」ほか、11のユニークな「おみやげ」キイワードによって作品・資料が構成されている。最後の「たとえば、写真術と」では、19世紀に誕生した写真が、20世紀ではいかに美術家の表現を捉えたかという一断面が示される。今世紀はデジタル写真に移行し、さらに新たな表現へと突きすすんでいる。

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